友人のご兄弟が名古屋大学工学部建築学科ご出身なのですが(担当助教授が森博嗣先生)、授業で聞いた話を友人から又聞きで教えてもらったことがあります。
自然科学に関することであまりにも面白かったので、そのときから森博嗣先生のファンになり著書を読み漁るようになりました。
森博嗣先生のことをよく知らない方のために簡単に説明すると、職業は作家で、一日に一時間しか働かない億万長者です。
国語が一番の苦手科目だったのに、一番苦手だったはずのことで稼いでいます。
働かなければいけないから仕事をしているのではなく、ほぼ趣味のような感じで仕事をされています。
さて、この森博嗣先生、大学の先生だったこともあり、就活生から多くの相談を受けていたそうです。
多くの建築学科の卒業生が建築デザイナーのように「カッコいい」「羨ましがられる」仕事をしたいと考えるのだそうです。
一方、土木の仕事は皆やりたがらないそうです。
現代社会には「人から尊敬されなければならない」「お金をたくさん稼がなければならない」「モテなければならない」という避けがたい空気が蔓延しています。
余程気持ちを強く持っている人でないと、この空気に飲み込まれ、就活に失敗したときに「自分の人生は終わりだ」と自殺を考えてしまいます。
でも、仕事や肩書=自分と思っているからこのような思考に陥ってしまうんですよね。
もし、自分は自分。どんな仕事をしていようがファッションと一緒でいくらでも変えられるし重要ではない。別の仕事をしていてもそれは自分。という風に自由に考えることが出来ていたら、自分というありのままの存在を認めてあげられるのだと思います。
承認欲求というものは恐ろしいもので、どんなに社会的に成功した人でも逃れられません。
さすがに森博嗣先生レベルになると達観してしまっていますし自然と尊敬されるので自ら称賛を求めるような行動はとりませんが、「社会的には成功したけど自分で自分を認めることが出来ていない人」の場合は承認欲求の虜となってしまいます。
ある程度の承認欲求は力の元ですので悪くはありません。10代20代の若い方たちは多少生意気と思われようが自分のやりたいことをやればよいと思います。
しかし、既に権力を持っている人、特にもう高齢の人が上の座に居座り続けて承認や称賛を求め始めると、若い人たちは生きづらくなります。
これを改善するには、偉い人は後進に道を譲らなければなりません。そして自分で自分の機嫌を取る練習をしなければいけません。下の人達は誰も言ってくれないわけですから自分で気づくしかありません。
一方、偉くない人たちは批判というフィードバックを貰えるのである意味幸せなのかもしれません。
すべての人が自分の仲間なわけないのですから、批判はあって当然です。
その批判をただ単に「このヤロー」と思うか「自分に足りないことがあったんだ。改善しよう」と思うかで停滞するか成長するかが決まるでしょう。涙の数だけ強くなれるって坂井泉水*も言ってましたし(知らない?ごめんね。古くて)。
*追記:坂井泉水ではなく岡本真夜の間違いでした。大変失礼いたしました。揺れる想いを胸に精進いたします。
森博嗣先生はたくさんの著書を書かれていますが、そのうちの一冊『「やりがいのある仕事」という幻想』という本の中で「仕事というものは人間の本質ではない」と言い切っています。読者の頭の中の幻想を冒頭から打ち砕いてくれます。
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ご自身は成功されているのに、「無職でも人間の価値が変わるわけではなく、どんなに仕事で成功しても人間として偉くなるわけではない」と仰っています。
心の余裕があり客観的に物事を見ることが出来ると、この域へ到達するのでしょう。
しかし、実際は金と権力を握った老人たちがそんな考えを握りつぶすために「仕事で成功した者は偉い」という自分たちの価値観を押し付けようとしてきます。
お金持ちになるという夢を描け!モテなければいけない。尊敬されなければいけない。
そうした自分たちの価値観を若い人たちに押し付けることによって、既に成功した自分たちが気分良く過ごせる世界を作り出そうとしています。
でも実際は何か満たされないものがあるから、ありのままの自分を認めることが出来なくて、「成功しなければならない」という幻想を信じ込ませようとします。
これがどれだけ多くの若者の心を殺したか。
命令をする人は偉いという無意識の考えがあるために、従業員は社長に従います。
でも、社長も従業員も対等な人間です。権力と金に違いがあるだけです。
また、大人は大変だぞと大人は仕事の大変さを捏造して子どもたちを恐れさせています。
でも本当は大人の方が自由なんです。
子供は自分の自由意志で学校を選べないのに対し大人は自分の意志で好きな仕事をすることができるのですから。
もし違うと思うのならばそれは自分で自分を縛っているだけです。自ら不自由な思考の中に自分を押し込めてしまっています。
あなたも私も、皆、自由に生きることが出来ます。
過去に達成したこと、大切にしてきたもの、我々が必死にしがみついているそれらはただの幻想です。我々が私と思っているこの肉体も私ではないのでしょう(ここまでくると仏教的ですが)。
私だと思い込んでいるもの全てを取り払った後に残ったものが私らしきものなのでしょう。それは私=全かもしれません(あ、完全にスピリチュアルの話になったぞ)。
目に見えないけれど確かにある、それが私です(または知的財産かもしれない)。
スマホゲームは一度始めるとやめられなくなりますが、これは「自分が得た金品や仲間を自分に属するもの」と錯覚しているために失うのが怖くなってしまうからです。
アプリを消すと我に返ります(経験者は語る)。
SNSも同様かもしれませんね。自分は1万フォロワーいるぞ!これが私の人脈だ!と思っても、それも幻想かもしれません。数字で表されるフォロワー数という幻想に一喜一憂し、SNSの世界に閉じ込められ、運営会社の養分にされます。
スマホゲームと同じで、アカウントを消すと正気に返ります。
本とは関係のないことを書いてしまいました。
この本は20代の方向けの本ですが、それ以外の世代の人達が読んでも面白いと思います。
「働かなくて済むのなら働かないほうが良い。親の遺産があるなら遊んで暮せば良い」などと主張している本です。
この本を読んで「不謹慎な!」と怒ってしまったら、それは森博嗣先生が仰るように頭が固いのかもしれません。
人間は元来怠け者なので、「ダラダラして美味しいものを食べたい」で良いと思います
特に自分の天職が見つからず悩んでいる方は、「これが俺の生き方なんだ」「ここにしか私の居場所はない」と凝り固まった考え方を捨て去り、新たな一歩を踏み出す自由を与えてくれる貴重な本です。
辛いことがあればそのゲームから降りればいいんです。
私の夫は30代前半で企業の社員の肩書を捨て去り、無職へとジョブチェンジしました。
既に子どもたちもいたのに華麗なる転職(違う)です。
「○○社の人」から「無職」になった夫は、無限の時間の中、自由でした。
そして、闇の中にいました。
文句を言いながら盲目的に働いていたほうが楽なんです。
キャリアに傷もつかないし収入も得られるから。
毎日朝から晩までゲームに勤しむ気楽そうに見える夫は、「ゲームがなかったら気が狂いそうなくらい何かに追い詰められていた」人です。
男にとってプライドというものは判断を惑わす厄介なもので、他人には強い自分を演じていました。
弱さを見せることは恥なので、夫は会社の人には軽口を叩いて辞めましたが、内心不安で仕方なく、自分はどこにも求められていないのではないかと弱気になっていました。
そして、「考える時間」をとらないためにも一日20時間×365日ゲームをしていました。
資格取得のための勉強とか起業準備のような”真面目な”ことは一切していません。
ただ、遊んでいました。
人によってはこれを「無駄」と考えるでしょう。
無職でいくらでも時間があるのだから、英語力を高めるために一日一時間だけでもTOEICの勉強をしたり、国家資格をとるために勉強すべき、と
考えるでしょう。
でも私はそうは思いません。
「無」に見える時間は、サナギが孵るためには必要なものなのです。
焦燥感に駆られて勉強しても身につきません。
プライドとか世間体だとかそういったどうでも良いことが判断を鈍らせます。
でも、どんな状況でも自分は自分、そう思っていられたら、気持ちはとても楽になります。
もちろん家族が納得しないという場合が大半だと思います。
場合によっては離婚されてしまうかもしれません。
でも、こういう危機のときこそ配偶者は支えてあげるべきだと思います。
もし私が無職の夫に愛想を尽かして出ていったら、夫はもうこの世にいなかったでしょう。
(なお、私は20代の頃の夫よりも、困難を乗り越えて生まれ変わった後の夫のほうが好きです。辛い経験は人を成長させ魅力的にします)
40代になると転職は困難になります。しかし、20代後半〜30代前半の人なんて、正に「仕事の辞め時」だと思います。
だって、いくらでもやり直しが効く期間なのですから。
場合によっては自分に向いていない無理をしてやっている仕事(さらに給与が低いなら尚更)なんか辞めて、彼女や彼氏の家に転がり込んでヒモ生活をするのも良いと思います(前者は調子に乗って浮気したら一発アウトですのでお気をつけて。まあ、男も女も承認欲求が原因で浮気するんだと思いますよ。自分に自信がないから誰々よりも素敵と言ってくれる人と二股します。そうして心の隙間を埋めようとして隙間はどんどん広がって自分を支配し始めます)。
自分が自分だと思い込み必死にしがみついている「自分ではないもの」を脱ぎ捨てたときに、森先生の言う「自由」が手に入ると思います(ついでに自然とお金も舞い込んでくるでしょう)。
子供がいる場合には流石に無責任過ぎるのでそうすべきではないと思いますが、独身の方の場合は自由な立場を最大限に利用して生活保護に頼ってしまえば良いと思います。(生活困窮世帯での児童虐待件数は非常に多いことから、子供を支援すべきところ、親にお金を渡すと親がお金を使い込んでしまい子供に教育上必要なお金が行かないという地獄が待っています。外国みたいに物資や必需品交換用チケットで支援する制度にしても良いのではないかと思います。)
新天地でやり直したいと考える方は、「ズルい」というバッシングを受けてもそんな冷たい眼差しに屈せず有り難くお金をいただいて職業訓練をして何かスキルを身につければ良いと思います。
無料でスキルを教えてもらえる職業訓練校はプライドの高い人には「カッコいい」の対極にある存在で嫌かもしれませんが、少しの間の我慢です。(いや、むしろカッコいいと思う。前向きだから)
私の夫のように病んでしまった人にはぜひ知ってほしいのですが、他人は自分が思うほどに自分のことを気にしていません。人の噂も75日と言いますが、75日経つ頃には本当に誰もが噂を忘れています。
だから、辛いことは全て捨て去って自由になってほしいと思います。
30代前半、二人の子持ちの働き盛りで仕事を辞めた無職男を見習ってください!
誰かに自分の凄さを印象付けたいと思っても、そんなマウンティングは終わりが無いのですから精神を蝕むだけです。
感情に振り回される生活から穏やかな日々を手に入れて下さい。
それは、考え方一つで手に入るものです。
だって、「競争」は集団で生み出した集団脳内幻想だから。
上記の本には「現代人は仮想周囲を自分の中に作ってしまっていてそれに対して神経質になっている。そのために金を使い高いものを着たり人に自慢出来ることを無理にしようとする。
いつも周囲で話題にできるものを探している。
その方法でしか自分が楽しめなくなっている(197ページ)」として他人の目を気にしすぎる生き方から自由になるように説いています。
見えない誰かを恐れ、見えない誰かを討伐しようと考えるから病むのです。
もし、今の自分は病んでいるかもしれない、自由な考え方ができなくなっているのかもしれない、と考えたら、一旦オンラインの繋がりは捨てて、オフラインゲームをすると良いのではないでしょうか。
NintendoSwitchをオフラインで楽しむのがお勧めです(森博嗣先生の啓蒙活動に見せかけた任天堂スイッチのステマ記事)。
ちなみに、11月には真・女神転生5が出るよ!買わねば!
追記:この記事では後進に道を譲らない承認欲求の強い権力者を批判していますが、承認欲求が強くても魅力的な人は存在します。
次回はこの魅力的な人について書きます。
涙の数だけ強くなれると歌ったのは
「TOMORROW」の岡本真夜です(作詞も本人で坂井泉水ではありません・・・
自由という言葉もなかなか難しいですね。
持てる者の語る「自由」と持たざる者の語る「自由」は別物ですから。
無職や生活保護といった、自分が資本主義社会における弱者になったときでも
「俺は自由だ!人生楽しい!!」と言えなければ只の詭弁だと思います(辛辣
アイドルやアニメといったオタクコンテンツの界隈でも古参のオタクが
「ここは自由だぞ!楽しいぞ!みんなおいで!!」と一所懸命に宣伝しますが
古参は自分が座っている椅子を譲る気がないことを
新規のオタクに見抜かれているから人気が伸び悩むのです。
自由の価値は脆く危ういですね。
あああー!とんでもない間違いをしていました。追記しておきます(が、愚かさを残すためあえて直しません。)。
持たざる者の語る「自由」に関しては仰るとおりですね。
また、古参オタクのそのような行動もよく見聞きしますね。
「自分は人気になる前からこの作品(アイドルetc…)に目をつけていた」というファンが「昔からのオタク」と「新規参入者」とでヒエラルキーを作ろうとするからおかしなことになります。みんな同じ「ファン」として仲良くすれば良いのになぁと冷めた目で見ているとその作品への熱も冷めてしまいます・・・。
古参が語る「自由・平等・公平」は
自分をヒエラルキーの上位に据え置いた発言なんですよね。
そこから降りてくる気はないんですよ。
そうなると新規参入者は楽しめませんよね。
オンラインゲームでも、昔からやっている人たちは装備も凄いし強いメンバーで集まっているので新人は立場がありません。
上から目線の発言をされると余計やる気がなくなってしまいますし。
というわけでオフラインで他者の存在を気にしないゲームの方が純粋にゲームを楽しめるなあと思っています。
もちろん「昔からのマニア」は知識が豊富なのでその知識をひけらかさないように気をつけなければいけないと思っています(自戒)。