先月、北条裕子氏の著作権侵害問題について記事にしたのですが、その後、abematimesというメディアの記事、及び講談社と新潮社のコメント、「美しい顔」で参考文献としてあげられなかった本の編者のコメントを読みました。

 

これらについて改めて思うところがありましたので、私の考えを述べたいと思います。

 

まず、abematimesに書かれている福井弁護士の意見について。

私は、この方はいつも適切な回答をされている方だと思っていたのですが、今回初めて、「ちょっと違うかな」と感じました。

 

福井弁護士は「このくらいだと著作権侵害にあたらない可能性が高い」と主張されています。

以下、引用します。

著作権侵害が成立するためには、一般的に「著作物であること」「著作権が存在していること」「依拠性が認められること」「特徴的な表現が似ていること」の4点を満たすことが条件
〜(略) 『遺体』が著作物でなければ著作権の話にならない。

 

まず、ここで、「遺体」の著作物性を否定するかのような発言がされています。

(なお、念のために説明しておくと、石井光太氏は存命なので著作権は存在しています。

また「依拠性」に関しては後述する出版社からのコメントを見れば分かる通り、北条氏は石井氏の作品を参考にしたと言っています)

続きも見てみましょう。

 

福井弁護士は「ポイントは、元になったのが事実をありのままに伝える”ノンフィクション作品”だということ」と指摘する。
「遺体のリストにまつわる記述も含めて、実際にそうだったから石井さんはそう書いた。その事実は誰かが創作したものではなく、現に起きたことなので、本来は書いた人だけが独占することはできない。そうでなければ、誰もその事実を語ることができなくなってしまうからだ。そうなると、『遺体』に記載されている事実について他の人が借用したとしても、原則的に問題がないと考えられる。だから、事実を抽出することは構わないが、創作された特有の文学的表現まで無断で借りてくるのはアウトだ」(福井弁護士)。
そこで改めて両作品を検討すると、”特徴的な表現”が争点になりそうな箇所も存在する。例えば『遺体』には「うっすらと潮と下水のまじった悪臭が漂う」という一文があるのに対し、『美しい顔』には「うっすらと潮と下水のまじった悪臭が流れてくる」というよく似た箇所がある。また、『遺体』の「チャックからねじれたいくつかの手足が突き出している」に似た「チャックから、ねじれたいくつかの手足が突き出していた」という箇所もある。さらに、遺体安置所に並べられた遺体の様子をミノムシに喩えた情景描写も一致している。
「石井さんがノンフィクションにそう書いた以上、おそらくそのような匂いが漂っていたはずだ。そうだとすると、『潮と下水のまじった悪臭があった』という事実について石井さんが独占することもできない。しかし『うっすらと』という表現には工夫がある。その点も含めると、ちょっと北条さんが”借りすぎている”と考えられる。それでも今回はかなり微妙なケースだ。著作権侵害には最高で懲役10年の刑事罰があり、成立すればその表現は世の中から抹殺されざるを得ず、直ちに出版も差し止めになる。そこまでいくのが著作権侵害のルールということなので、当然そのハードルは高い。そうでなければ、あれもこれも侵害だとなり、それこそ表現にとっては命取りになりかねないからだ」。

う〜ん、「事実は著作物ではない」という点は確かにそうなのですけど、たとえ事実でも見た人によって表現が変わってしまうということは多々あると思うのです。

この文章の場合は、「うっすらと」という部分だけでなく、「潮と下水のまじった悪臭」という部分にも創作性は認めても良いのではないかと思います。

確かにこのような表現はありふれた表現かもしれません。

しかし、書こうと思えばいくらでも別の表現ができたはずです。

 

たとえば、「海の水とドブ水が混ざり合ったような臭い匂い」というように。

しかし、今、私が書いたような「ダサい」表現を使わず、石井氏は「カッコイイ」表現を選びました。
(海の水と書くより潮と書いたほうがカッコイイ気がします。また、うちの小学生の娘の感覚でもそうらしいです。)

 

そして、石井氏の表現の方が、スラスラと文章を読み進められます。

これは、石井氏の表現したものが紛れもない著作物であり、力を持っていることの証明なのではないでしょうか。

 

文章というものは、何気なく書いていても思想や感情というものが表現されるものです。

単純に、「公園の風景」を描写しろと言われても、表現の仕方は十人十色でしょう。

 

そして、石井氏のようなノンフィクション作家の人の場合は普通の人以上に慎重に言葉を選ぶはずです。

できるだけ無機質で感情を伝えない、それでいて読む者の感情を揺さぶるような言葉を。

 

このように、「見たものをそのまま、適切な言葉で、ただ描写する」ということは意外にも難しいということがわかります。

 

もし、ここで福井弁護士の言うとおりに石井氏の作品が著作物ではないということになってしまうと、どうなるでしょうか。

 

それこそノンフィクションライターの表現力、語彙力、そして人格を無視することになってしまうのではないでしょうか。

 

一般の人にとっては、石井光太氏の優れた作品を全部無料で読めることになるので最初のうちは嬉しいかもしれませんが、それでは石井氏はノンフィクションライターで生計を立てることができなくなります。

すると、結局ノンフィクションのジャンルでやっていこうという人がいなくなり、文化の発展に寄与(著作権法の法目的)しなくなるのではないでしょうか。

 

私は、ノンフィクションやドキュメンタリーといった分野が著作物でないとは思えません。

同じ「事実」を伝えようとしても、「表現」は変わってきてしまうからです。

そして、選んだ言葉や言葉を並べる順番には、著作者の思想が反映します。

 

「美しい顔」の中でわざわざ「遺体」の表現を使う必要はありませんし、盗用になってしまうことを考えたら表現を変えてしまったほうがずっと良いのは明白です。

 

福井弁護士自身もおっしゃっているように「ちょっと北条さんが”借りすぎている”」という点は明らかです。

 

「遺体」と「美しい顔」を読み比べてみると、独自の表現に変えずに、そのまま石井氏の文章を使っている部分が多すぎます。福井弁護士が指摘した部分だけでなく、他にもたくさんの文章に類似が見られます

 

なのに、「あれもこれも侵害だとなり、それこそ表現にとっては命取りになりかねない」と言ってしまうのは、ノンフィクションライターに著作権を主張するなと言っているようなものです。

 

著作権侵害に最高で懲役10年の刑事罰があるといっても石井氏が告訴までするとは思えませんし(石井氏の期待するような謝罪がなかったら告訴するかもしれませんが)、やけに北条氏を擁護しすぎな感は否めません。

 

それから、福井弁護士がおっしゃっているように、「事実は著作物ではない」のと同じように「法律の条文」も著作物ではありません。

 

すると、法律の条文を用いて法解釈をしている福井弁護士の発言まで「単なる法解釈を述べているだけであり、事実だから著作物ではない」ということになってしまいます。

 

さらに、動植物を写真に収めた場合には、「動植物は現実に存在するものであり、それを写真に撮っても著作権は発生しない。その写真は誰でも使える」ということにもつながってしまいます。

 

これでは、写真の著作権も認められなくなってしまいます。
(なお、監視カメラで自動的に撮られるような映像には著作権は発生しません。)

 

ですから、私は、どうしても福井弁護士の発言に納得できないのです・・・。

 

福井弁護士が両作品の類似箇所を全部読み比べてみたら違うことを言っていたのではないでしょうか。

 

 

さて、次は講談社及び新潮社のコメントを見てみたいと思います。

 

まずは新潮社のコメントから。

北条裕子氏、講談社からは、「群像」6月号に掲載された『美しい顔』に関して、石井光太氏の著書『遺体 震災、津波の果てに』を参考にしながら、参考文献として未掲載だったとの説明、謝罪を受けました。

しかし『美しい顔』に、『遺体』と複数の類似箇所が生じていることについては、単に参考文献として記載して解決する問題ではないと考えています。北条氏、講談社には、類似箇所の修正を含め、引き続き誠意ある対応を求めています。

***

石井氏のコメントは残された課題③に重きを置いた内容で、弊社のコメントは課題②に重きを置いた内容となっています。これまで説明してきた経緯をご承知頂ければご理解頂ける通り、石井氏、弊社のコメントともに、5月29日の協議以降、一貫して北条氏、講談社に要望してきた内容を報道各社向けに発表したにすぎません。

しかしながら、7月3日、突然、講談社より「群像新人文学賞「美しい顔」関連報道について 及び当該作品全文無料公開のお知らせ」と題したリリースが発表されました。そしてその中で、「6月29日の新潮社声明において、「単に参考文献として記載して解決する問題ではない」と、小説という表現形態そのものを否定するかのようなコメントを併記して発表されたことに、著者北条氏は大きな衝撃と深い悲しみを覚え、編集部は強い憤りを抱いております」と記されるなど、弊社に怒りの矛先を向けた内容でした。

この講談社のリリース内容に、弊社はただただ驚くとともに困惑するばかりでした。弊社のコメントを再度お読み頂ければお分かりのように、「小説という表現形態そのものを否定する」記述などどこにもありません。また、講談社が怒りの矛先を向ける「単に参考文献として記載して解決する問題ではない」という弊社の見解も、5月29日以降の協議ごとに講談社側にはお伝えしてきたもので、今回のコメントではじめて弊社が表明したものではないことは、これまでの経緯からご理解頂けると思います。

講談社のコメントに困惑している感じが読み取れます。

 

では、講談社のコメントです。

6 月 29 日以降の一部報道により、本作と著者について中傷、誹謗等がインターネット上等で散見され、盗用や剽窃などという誤った認識を与える文言まで飛び交う事態 となりました。
これらの不当な扱いによって、本作と著者およびそのご家族、新人文学賞選考にあたった多くの関係者の名誉が著しく傷つけられたことに対し、強い憤りを持つととも に、厳重に抗議いたします。

今回の問題は参考文献の未表示、および本作中の被災地の描写における一部の記述の類似に限定されると考えております。その類似は作品の根幹にかかわるものではなく、著作権法にかかわる盗用や剽窃などには一切あたりません

今後弊社としては、甚大なダメージを受けた著者の尊厳を守るため、また小説「美しい顔」の評価を広く読者と社会に問うため、近日中に本作を弊社ホームページ上で全文無料公開いたします。

コメントには、「その類似は作品の根幹にかかわるものではなく、著作権法にかかわる盗用や剽窃などには一切あたりません。」とありますが、著作権というものは、「表現を真似しているかどうか」を問題とします。

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「作品の根幹にかかわるものであるかどうか」ということは見ません。

作品の根幹というものは、すなわちアイデアであり、アイデアは著作権法では保護されません。

勘違いされやすいところであり、過去にも何度か記事を書いています(たとえば、こちら。著作権法の勉強になりますのでぜひお読みください)。

 

また、著作物を利用する者は、著作者の人格権を保護するため、著作者の氏名を表示する義務を負っています(著作権法19条)。

 

この氏名表示権を侵害した場合も著作権の侵害となります。

 

ただし、例外的に、「著作物の利用の目的及び態様に照らし著作者が創作者であることを主張する利益を害するおそれがないと認められるときは、公正な慣行に反しない限り、省略することができる。」とされています。

 

私は文学作品の場合の「公正な慣行」というものは熟知していないのですが、参考文献として巻末などに参考にした作品の名称と著作者の名前、出版社を表示することは普通に行われていると思います。

氏名表示権の侵害や盗作と勘違いされる危険性を考えたら、参考文献を挙げたほうが良いのは明白です。

 

著作権法第十九条 著作者は、その著作物の原作品に、又はその著作物の公衆への提供若しくは提示に際し、その実名若しくは変名を著作者名として表示し、又は著作者名を表示しないこととする権利を有する。その著作物を原著作物とする二次的著作物の公衆への提供又は提示に際しての原著作物の著作者名の表示についても、同様とする。
2 著作物を利用する者は、その著作者の別段の意思表示がない限り、その著作物につきすでに著作者が表示しているところに従つて著作者名を表示することができる。
3 著作者名の表示は、著作物の利用の目的及び態様に照らし著作者が創作者であることを主張する利益を害するおそれがないと認められるときは、公正な慣行に反しない限り、省略することができる。

 

なお、「美しい顔」に参考文献として挙げられていなかった「3.11 慟哭の記録 71人が体感した大津波・原発・巨大地震」の編者である金菱清東北学院大教授は「執筆ルール違反の問題。小説だけ例外として看過するわけにはまいりません」とコメントされていますが、この点は執筆ルールもあるでしょうが、氏名表示権の侵害ということで片付けられると思います。

なお、金菱教授は、「今回問題になっている表現の一言一句ではなく、ことの本質はその当時の『人間の体温』や『震災への向き合い方』にかかわるものだと感じました」
ともコメントされており、この点については新潮社や石井氏の考えと同じでしょう。

トラウマになるほどの実体験を無関係の他人が創作のネタにすることはを快く思わないのは人間として当然の心理でしょう。

 

講談社のコメントに戻ります。

「被災地の描写における一部の記述の類似に限定されると考えております。」とありますが、著作権の侵害とは、「一部」であるか「全体」であるか、すなわち「量」は関係ありません。

もちろん、たった数文字だったりありふれた表現だった場合には著作権の侵害とはなりませんが、ここまで多くの部分が類似している場合には、前回の記事で書いた通り、複製権の侵害、同一性保持権の侵害、翻案権の侵害となります。

 

もしこれだけの類似があるにもかかわらず、このような行為を著作権侵害ではないとすると、結局は単なるマナーの問題に帰着することになり、石井光太氏のようなノンフィクションライターは泣き寝入りをするしかないのではないかと危惧しています。

 

事実は誰も独占することはできません。

しかし、事実を思想または感情を交えて創作的に描写した表現物は著作物として守られるべきものです。

 

石井光太氏の文章が「事実を書いただけのもの」であるとは私には到底思えません。

石井氏の文章には十分に創作性があります。

 

なお、石井氏が汗水を垂らして取材したということは著作物の成立とは関係ありません。

(これについても勘違いしやすいところですが上述した私のブログの過去記事のコメントを読んでもらえば理解できるはずです。)

そうではなくて、石井氏という一人の人間の語彙力や想像力や感情など様々なものを創作的に表現したものが著作権法によって保護される対象なのです。

 

もし、事実を創作的に描写した文章が著作物でないならば、それこそ現実世界に存在する物を写した写真など何の価値も無いということになってしまいます。

 

木々や動物は著作物ではなく、ただ現存するものだから、それをそのまま忠実に再現した写実絵は、本物そっくりであればあるほど著作物では無いなどとは言えないはずです。

 

なお、作品のリアルさを追求するならば自らの足で取材するのが作家の基本だと思っていましたが、最近はそうではないのかもしれません。

新聞記者たちもわざわざ現地へ飛ばず、一般の人が撮ったTwitterの写真を使わせてもらっていることが多いですし・・・。
これを効率的とみるか手抜きと見るかは立場によって変わるでしょう。

 

昔は、たとえば浅田次郎氏が講談社から出版した「蒼穹の昴(1) (講談社文庫)」を書くために中国へ取材へ行っています。そこで感じた空気があのベストセラー作品を生み出したのだろうと思います。
時代は違えどその場へ行くことによって得るものは大きいでしょう。

また、浅田氏は歴史小説を書くために鹿児島へ飛んで、取材をしています。そのときに、歴史小説だけでなく「しろくま綺譚」というエッセイを書いています。
アイム・ファイン! (小学館文庫 あ 18-2)」というエッセイ集の中に収められているのですが、ユーモアたっぷりで面白いです。取材に行くと小説にリアリティが生まれるだけでなく、このような派生物も生まれるので面白いですね。

ライトノベルで雰囲気抜群の異世界転生ものを書こうと思ったら、アイルランドだとか「中世ヨーロッパ風」の場所へ取材へ行くというのも、よくある異世界転生ものから抜きん出る方法として良いと思います。

リアルな作品って引き込まれる面白さがありますからね。
文字通りリアルな井上雄彦氏の「リアル コミック 1-14巻セット (ヤングジャンプコミックス)」や、それに影響を受けた「宇宙兄弟」なんてめちゃくちゃ面白いです。

 

閑話休題。

最後に

「甚大なダメージを受けた著者の尊厳を守るため、また小説「美しい顔」の評価を広く読者と社会に問うため、近日中に本作を弊社ホームページ上で全文無料公開いたします。」

とあり、また、既に公開されていますが、これは、新潮社及び石井氏の意向に背く行為であり、望ましいとは言えません。
新潮社及び石井氏は類似箇所の修正を求めているのですから、修正をしてから発表するか、最低限「無料公開しないでおく」べきでした。

 

このようなコメントを発表してしまうことは、講談社というブランドを傷つけてしまう恐れがあります。

いえ、高い価値のある講談社ブランドを傷つけてしまいました。

なぜなら、ネット社会では瞬時に情報が伝わってしまうことから、誠意ある対応を見せないと更なる誹謗中傷を受けることになるからです。

 

自社製品に何か問題があった場合には、メーカーは即座に該当製品を回収し、謝罪するのが通例となっています。

そうすることが結局は自社ブランドを高めるということが証明されているからです(これも旧ブログで書きましたが、自社製品に不具合があった場合に回収費用などをケチって対応をノロノロとしていると、被害が膨れ上がり会社が倒産してしまいます。しかし、情報を得次第、誠実な対応をした会社は短期的には赤字が出ても長期的な目で見ると、ブランド資産という知財力を上げることができます。パナソニックなんて対応が早いですよね)。

 

同じように、出版社も自社のブランドを守るため、そして著作者の人格を守るため、「誠実な対応」をしなくてはいけません。

しかも「瞬時に」です。

 

ここを誤ってしまうと、ネット上で不特定多数の人たちから誹謗中傷を受けることになります。

 

そして、強硬に反論すればするほど、自らの首を絞めることになってしまいます

 

ネットとは恐ろしいもので、一度発言したことはずっと残ってしまいます。

そのため、盗作をしておきながら不用意な発言をすると、その後何年経っても作者には「盗作をしたのに素直に謝らなかった残念な人」という汚名がつきまとうことになりますし、出版社も対応を誤ったことについて非難されてしまいます。

 

講談社の言い分はよくわかります。

「ノンフィクションを参考にして小説を書いた。そして、その小説には独自のストーリーがある。だから、似ているところがあっても別作品だし著作権侵害で刑事罰を受けるなんて行き過ぎだ。ノンフィクションを参考にして小説を書くということは昔から行われてきたことだ」

ということを言いたいのだと思います。

 

でも、著作権法は上述したようにストーリーのアイデアを保護するものではなく、表現を保護するものです。

そして、北条氏の作品は、個々の表現が偶然似ていたというレベルを超えて似ていました。そのまま石井氏他たくさんの人の文章を使った部分がたくさんあります。

 

確かに昔の小説家にはノンフィクションを土台にして北条氏のような行為を行っていた人もいるようです。

しかし、現代ではこれだけ著作権というものが浸透しているのですから、ここで全近代的な慣習について取り上げてもそぐわないと思います。

 

盗作疑惑が判明した時点で、言い訳は一切無しで全面的に謝罪という対応をしていれば、短期的には批判されても、長期的に見れば、講談社ブランドを汚さなかったのでは、と勿体無く思います。

少なくとも、もし私が担当者から相談を受けていたら、「即刻言い訳無しで謝罪を!」とアドバイスしました。

 

今回の盗作騒動により、講談社はそのブランド力を毀損してしまいました。

著作権という知的財産権の侵害による損害賠償額よりも、もっと価値の高いブランドという知的財産を傷つけてしまったことは、実に惜しいことです。

 

 

・・・と、知財ブログらしい終わり方をしておきます。

本当は小学生の手記のこととかいろいろ書きたかったのだけど長くなりすぎたので、また後日。