創造という言葉には不思議な魅力があります。
神話の中で「神が世界と人を造った」と語られているように、創造は人智を超えたパワーと認識されているからかもしれません。
太古の昔にはテクノロジーは存在しなかったわけですが、人間の知的活動により、多くのテクノロジーが生み出されてきました。
同時に多くの芸術も生み出されてきました。
テクノロジーの創造も芸術の創造もどちらも人間の知的活動ですので、根本は同じだと思います。
言葉の語源も同じですし。
さて、この創造という作業は「神」と人間以外にもすることは出来るのでしょうか。
つまり、ロボットのような機械にも創作は出来るのでしょうか。
ニュース配信サイトでは、アルゴリズムに基づいて、読者の読みたいニュースを配信していますが、ここ数年、配信されるニュースの種類分けだけでなく、ニュース記事もアルゴリズムによって自動育成されています。
データさえあれば、あとはそれを読める文章に直すだけですから、記者は単純作業から逃れられます。
考え方によっては記者の仕事を奪われてしまうわけですが、記者は単純作業でない創造的な記事を書けばいいわけです。
さて、この記事を書くという作業は、単に膨大なデータの中から必要なものを抽出して文章にするという作業ですが、これがさらに性能を増せば、機械に小説を書くこともできるのではないでしょうか。
ジョゼフ・キャンベルという神話学者の本に書いてあったのですが、神話はどこの地域でも似通っているそうです。
たとえば、ギリシア神話と日本のイザナギとイザナミの尊の「後ろを振り返ってはいけない」という禁止規定なんてそっくりですよね。
また、人が好む物語の型も決まっていて、人気作品は全て主人公がまずメンター(導き手)に出会い、それから困難に遭遇し、逆境を乗り越え、何かを得て元の場所に帰ってくるという型通りになっています(ナウシカやスターウォーズ、ドラゴンボールやワンピースetc…)
ですから、古今東西の神話や小説を研究し、人が好みそうな型にハマった物語を作れば、超面白い作品が出来たとしても何の不思議もありません。
事実、ベイマックスなどは、一人の脚本家が書いた原作に基づいて作品を作っているわけではなく、複数人の手により造られています。
日本文化や日本人をよく研究して創られているので、一昔前によくあったアメリカのアニメとは違って、日本をエキゾチックで変な国として貶す雰囲気はなく、日本人でもアメリカ人でも楽しめる作品になっています。
このように、創作という作業は発明と同じで、一人の人間だけがするものではありません。
むしろ複数人でしたほうが面白い作品になります。
ですから、ネタやデータ集めは機械に任せて、最後の味付けは複数の人間がすれば、まず外さない面白い作品が創られると思います。
機械に創作させるとしたら、小説自体よりも映画の原作や脚本が良いのではないかと思います。
娯楽に溢れた現代では、書き手はロボットの力により増える一方なのに、それを読んでくれる読者の数には限りがあるので小説家が生き残るのは更に難しくなるのではないかと思います。
他に面白いことはいくらでもあるのだから、わざわざ小説を読んでくれる人は減る一方だと思います。
作家志望の子でも、他人の作品はほとんど読んだことはないという人は大勢いるといいますし。
そんな人たちは、創作が好きというわけではなくて、自己承認の手段として小説を書きたいわけです。
そして、他人の小説をあまり読んだことのない人には面白い作品は書けません。
「型」がないわけですから。
なので、機械は、「有名になりたい」「作家になりたい」と考えているだけの人が創作した小説よりは確実に面白い小説を書けると思います。
では、彫刻や絵画、作曲といった芸術についてはどうでしょうか。
人間にしか出来ないもののように思えますが、作曲などは機械がそれっぽい曲を勝手に造ってくれます。
下手に人間が作曲したものよりもよほど聞ける曲です。
絵画については見たものをそのまま写し取ってくれるカメラが特殊効果を施せばそれで絵画になってしまいます。
ただ、「描き手の気持ち」というものを表現することができるのはまだまだ先だと思います。
本物と見間違うほどの卓越した画力を誇るイヴァン・アイヴァゾフスキーも写実的に写し取るということに関してはカメラに劣るでしょう。
しかし、カメラという便利な物がある現代でも彼の絵は人々の心を捉えて離さないように、やはり芸術というものには創作者の魂が宿るのかもしれません。
この「創作者の魂」をロボットが表現出来たとき、ロボットはもはやロボットとみなされないのでしょうか。
みかけも人間で、魂が込められていれば、ロボットも人間の仲間として迎え入れる時代が来るのかもしれません。
もちろんその時には、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」の世界で行われているように、アンドロイドたちはハンターたちに「駆られて」しまうのでしょう。
そして、「自分を人間と信じ、魂も持ち、人間と共に生きるアンドロイド」はもはやアンドロイドとしてではなく人間の仲間として生きていくことができるのかもしれません。
人間は、自分は特別な存在でありたい、機械とは異なる感情を伴った存在だと考えたがります。
犯し難い「創造」という行為まで機械ができるようになると、もはや人間の唯一無二性は揺らいでしまうので、人は生命を持たない機械が創作をすることを恐れます。
しかし、もし、命あるものしか創造できないとしたら、水が滴り落ちて何百年もかけてつくった鍾乳石やネズミがかじってつくった彫刻は芸術ではないということになってしまいます。
自然や動物が造ったものは、人間の手が加わっていない分、より人の心を打つことがあります。
真っ青な空や海、大きな滝、どこまでも続く平原を見て心を打たれたことのない人などいないでしょう。
自然が造った芸術は創作と認めるのに機械が造った芸術は創作として認めないという道理はないと思います。
いずれ、機械が発明や創作をする日が来るのではないかと思います。
止めようとしても止められない流れでしょう。
Trizの進化の法則にあるように、人がしていた活動は機械に取って代わられるのです。
人が創り出した機械が、人間の生活をより豊かにするために機械を生み出すという不思議な現象が起こるのかもしれません。