私たちは、年を取るほど経験を積むほど「常識」を覚えていきます。
「常識」という名の「暗黙の了解」を利用することにより、時間や思考の無駄を省けるからです。

 

しかし、「常識」は便利であると同時に諸刃の剣でもあります。
つい、自分の「常識」から外れた行為をする人や考え方をする人に対し、違和感を覚えてしまうからです。

 

国などによって法律は違いますが、この法律というものはそもそも人間が決めたものなので、場所や環境が違えば法律も違うのはある意味当たり前といえます。

しかし、その法律=決まり=常識に従って生きてきた人間にとっては、違う常識の人の考えは、ときに「非常識」と映ってしまうのです。

 

たとえば、特許制度についてあまり知らない人から「特許は更新できないのですか?」と質問されたとき、私は、一瞬「え?」と驚いてしまったことがありました。

特許の更新ができないことなんて自分にとってはあまりにも「当たり前」であるために、そんなことを考えもしなかったからです。
でも、商標が更新できるということを知った人が同じ知的財産権である特許権も更新できるに違いないと思っても何ら不思議はありません。

 

外国、たとえば中国では執行猶予期間中に発明をした場合には減刑されるという法律があります。これは、なんで!?と思ってしまいますが、人類にとって重大な功績を立てたからというのが理由のようです。

シンガポールではガムが禁止されているのは有名ですが、これも理由を聞くと一応は納得できます。

 

このように、違うルールを示されると、既に別のルールに従って生きている人間はちょっと戸惑ってしまうことがあります。

 

まだ「大人の常識」に染まっていない子供と過ごしていると、こんな戸惑いをたくさん感じることができます。

 

うちの次女は「どうして信号やリンゴは緑なのに青というの?」とか、「シャワーをかけていないのに、どうしてお風呂の天井が濡れているの?」といった質問をよくしてきます。

すると、私は嬉しくなって理由を説明します。
理由がわからない「決まり」に出会ったときは、一緒に「なんでだろうね。考えてみようか」といって考えてみます。

 

他愛もない話ばかりしているので、傍から見たら子供っぽいお母さんに見えてしまうでしょうが、こうして子供と一緒に無邪気に話していると「常識」の束縛から逃れることができるのです。

 

長女は内気で人見知りなため、わりと「常識」にとらわれている(ように見える)のですが、天真爛漫な次女は、無知であるがゆえに、ときには大人がタブーと思うことまで平気で口にしてしまいます。

 

たとえば、黒人の人に対して「どうしてそんなに日焼けしているの?」と質問するといった具合です。

 

長女はその場では何も言いませんが、 後になって、「アメリカにいると黒くなるの?あ、でも〇〇(友人の白人の子供)はアメリカから来たのに白いよね」などと言ってきます。

 

こんな質問をされて大人が慌ててしまう理由は「肌の色で人を差別してはいけない」という常識があるからです。
でも、肌の色が違うということは見ただけですぐにわかる事実です。その事実を肯定せず、臭いものにふたをするようにあやふやな答えをしてごまかしてしまうのは事実から目を背ける行為です。

ですから、私はアメリカの歴史の話をしたり、見た目は違うけれど変わりないよね(倫理的にどうというよりも自分がそう感じているので)という話をしています。

 

すると、子供たちも「そうだよね」と納得します。

 

実際、肌の色のせいで人間性が変わることなんてありません。
それは長女が赤ちゃんのときに身をもって経験しています。

 

長女は赤ちゃんのときに家に遊びに来た男の人たち(夫の友達4人。うち3人は日本人)に抱っこされたときは泣き続けていたのに、そのうちの黒人の男の人に抱っこされたときだけはパパに抱っこされたときのようにおとなしくしていました。
おそらく彼は兄弟が多く、抱っこが上手だったからだと思いますが。

 

肌の色で差別をするのは目が見えるようになってからで、さらに人種によって差別をするのは大人の考え方を「移植」されてからなんだろうなと思います。

 

(ちなみに肌の色によって「劣っている」という事実が見られた場合、それは差別されることにより周りの人間や環境からそういう人間に「創られている」ということでしょう。それは、欧米人を崇拝し、アジア人を蔑視する私たち日本人にはよく理解できると思います。ときには差別者であり、ときには被差別者である我々のアイデンティティが揺らぎがちなのも納得できます。)

 

私たちの持っている「常識」「当たり前のこと」は、今現在、この国に住んでいるこの性別のこういう環境に置かれている人にとっての常識に過ぎないのかもしれません。

 

また知財の話になってしまいますが、最近話題の著作権の侵害について一般の人が、「こんなときは著作権侵害にならないのに、〇〇なときにはどうして著作権侵害になるのだろう?」と考えたとき、私は「そういう決まりだから」と思ってしまいがちです。

 

でも、法律が制定された趣旨は初学者の頃に叩き込まれたはずです(著作権法は特許権法ほど趣旨なんて考えずに勉強していたけど)。

 

法律は専門家のためにあるのではありません。
一般の人が疑問に思うようなことがあるということは、改正の余地があるということです。

 

そんな素朴な疑問を大切にしているとバランス感覚を失わずにいつまでも新鮮な気持ちでいられると思います。

 

「常識」にとらわれず、自由に発想できるということは、とくに商品・サービス開発や発明のときに役に立ちます。

 

純粋な気持ちで「こんなのがあったらいいな」「なんでこういうのがないのかな?」「こんなことできるかな?」と子供のように発想することは、その道の専門家になればなるほど難しくなると思います。

 

しかし、「常識」のない「非常識」な人ならば、何のとらわれもなく斬新なものを発明できるわけです。
そして、ここでいう「非常識」とは、非難されるべきものではなく、「革新的(イノベーティブ」であり、イノベーションを生むことができるものでしょう。

 

常識を打ち破るには、自分と全く違う考え方の人、たとえば、違う文化で育った人や年齢がかけ離れている人たちと交流してみると、良いと思います。

 

すると、新鮮な発見がたくさんあり、自分がどれだけ狭い世界で生きていたかわかるので発明に役立つだけでなく、自分を向上させることができます。

 

大人になると、つい、「そういう決まりだから」ということで済ませてしまいがちですが、子供の視点を忘れないでいたいものです。