昨日は技術の進歩は幸せに直結しないという話を書きました。
今日はその話の発展版です。
むかーし昔、まだ貨幣が存在しなかった古代、社会は物々交換や労働力の提供によって成り立っていました。
中世になり貨幣が生まれてからも、貨幣は交換に便利なものという取り扱いで、あくまでも物や労働があってこそ経済的価値が生まれるとの考えが根強くありました。
したがって、労働があってこそ生産され経済的価値が生まれるという価値観は日本や多くの外国において伝統的な考え方でした。
汗水垂らして働くことが尊いという価値観は長く日本の価値観の中に根付いています。
このような価値観を、仮に労働主義社会と呼んでおきます。
この労働主義社会(仮)から資本主義社会へ移行している最中に多くの葛藤がありました。
そしてその葛藤は今なお我々を苦しめています。
貨幣を増やすことを目的とする資本主義社会では、不動産や株への投資がもてはやされ”金が金を生む”ことが善となりました。
しかし、そのような概念は、伝統的労働観を持つ人には中々受け入れられませんでした。
特に金融商品を長期的に保有するのではなく短期的に売買を繰り返す投機行為は、その行為自体には価値がありませんから。
そのため、不動産・株式投資自体もなんとなく悪いものなのではと考えている人は多いと思います。
リスクもあるために「楽して儲かる」とは違うのですが、不動産・株の売買に携わる人たちは胡散臭く見えても仕方ないでしょう。
ブラックボックスが存在するためです。
(なお、仲介業者の倫理について暴露している面白い漫画として『正直不動産[PR]』をお勧めします)
このように、貨幣が中心となった社会経済のあり方を資本主義として現代社会の在り方の前提とするならば、
人間が中心となり社会経済を形成する(前記)労働主義社会的価値観の人たちには現代は生きづらいことこの上ありません。
特に、ものづくりを行う職人にとっては受け入れがたい価値観に当たるでしょう。
職人だけではありません。実は商人にとっても資本主義社会は絶対善ではありません。
なぜならば、商人は信用というブランドを作り、そのブランドに則って商売を続けてきたからです。
伝統的価値観も商売の継続もすべて無視して金銭それ自体を転がすというやり方は伝統的商人の働き方とは異なります。
結果として、資本主義というものは必然的に拝金主義者を増加させ(イメージとしては時代劇に出てくる越後屋と悪代官)人間の価値=所有する金銭の量という感覚を人々に植え付けます。
金銭というものは決して悪ではないのに金銭を汚らしく感じてしまうのは、このように貨幣が人間を支配していることが背景にあるからでしょう。
資本主義社会では、人間が主役でお金を使っていた時代には起こりえなかった病が社会中に蔓延するようになりました。
人を”生産性”で測り、人の価値は”どれだけ経済的に価値があるか”と等しくなりました。
スポーツ界は元々聖域でしたが、企業が広告的価値に目を付けたことにより汚職が横行するようになりました。
障碍者や老人は生産性が無い=価値がないという考えにとりつかれ、”生産性のない人”を排除しようとする人まで現れました。
社会に貢献できるようになるまで時間のかかる子供は、自称”良心的な市民”から毛嫌いされるようになりました。
社会全体で農産物や子供を育てるという古き良き時代の日本の概念は消滅し、超個人主義が標準となりました。すなわち、「自分の農地」「自分の権利」というように義務よりも権利意識が肥大化し、「他人の子供」=「私の子供ではないから私に害を与えるだけの存在」という歪んだ考えに至る人もいます。これらは全て過去の東洋社会に存在した集団主義社会には見られなかった考え方です。
今の日本で One for All, All for one. (一人はみんなのために、みんなは一人のために)を体現しているのは、創作の中のヒーローくらいです。
あらゆるものを金銭的価値で測るようになると、当然「アイデア」のような無形の資産にも価値が付けられます。
そもそも特許制度は人のエゴから初まったと言われています。
かつては技術や医療に関する新規性のある発明は「みんな」のものでした。
それでは発明者が報われないということで特許制度が整備されました。なので特許制度には発明者に金銭で報いる側面があります。これ自体は決して悪とは言い切れません。倫理上の問題が浮上するのは医療に関係する発明や途上国での特許保護についてです。
資本主義社会では「自分の権利」は当然「自分で考えたアイデア」に及ぶわけです。
ところが、その「自分で考えたアイデア」は「他の誰かが既に考えていたアイデア」である可能性は大いにあります。だけど、特許制度は「早いもの勝ち」なので特許をとっておかなければいけないのです。
そんなのおかしいよ。先に特許をとった人ではなく先に発明した人が報われるべきでしょ、と考えたのが資本主義の申し子であるアメリカです。
言っていることは正しいのですが先に発明したことに証明が難しいので世界的なスタンダードは「先に特許出願をした方が勝ち」です(先出願主義)。
特許化されたらその特許を購入して、特許を実施している人たちに損害賠償請求をするという特許トロールのようなこともできてしまいます。
商標登録された言葉をホームページに記載しただけで損害賠償請求をしてくる商標トロールビジネスもあります。(通告書を送ってくるのは弁護士なので多くの人は驚き恐れて言い値を支払ってしまいます。支払いまでに猶予期限はあるのですから、あわてて支払わずに専門家にご相談を!)
このように、知的財産権は無体である分実態が掴みにくく、不正が起こりやすい分野です。
さて、この流れで見てくると、資本主義の先進国アメリカはまるで悪い国のように思えます。
しかし、確かに悪い部分も抱合していますが、良くしようとたゆまぬ努力を続けている国でもあります。
日本よりも優れている点としては、無体の資産だけでなく、無体のサービスにも金銭的価値があると当たり前に考えられる点でしょう。日本のおもてなしは世界最高レベルですが、これは従業員の努力とモラルによって成り立っています。
一方、チップがある国ではとても現金です。これを不快と思うのか対価を支払わなければ良いサービスは受けられないと考えるのかは各人の自由です。
でも、海外の人の方が無形のサービスへの支払いにずっと抵抗がない、それどころか無形のサービスへは対価を支払うべきという考えが浸透しています。そのため、カウンセリングサービスのような心は癒すけれど物を生み出さないサービスへの支払いは日本では嫌々行われることが多いですがアメリカではごく自然に行われます。効果のない詐欺のようなカウンセリングが多いこともあって日本では未だにカウンセリングサービスに抵抗感を持つ人は多くいます。
そして、ものや労働力にこそ経済的価値があるという冒頭の労働主義(仮)に戻ってくるわけですが、MPを消費して回復する白魔術とは違って、回復が目に見えない癒しというものは、労働主義社会(仮)では価値を認識されづらいだろうと思います。
とはいえ、昔から僧侶のような職業はあったわけですから、癒し職は(詐欺師たちもいるせいで)胡散臭さと紙一重で生き永らえることができるのかなと思いました。
最後に、資本主義社会と労働主義社会(仮)のどちらが良いのかと言えば、どちらともいえないと思います。しいて言えば、基本を主本主義にして労働主義的修正を加えていくのが自然で良いのかなと思います。