朝、雨が降っていないからと傘を持たずに出かけたら、帰りの時間になって雨が降ってくるということはよくあります。そのために小型・軽量の折りたたみ傘は進化を遂げ、最近では200グラム程度の軽い傘も売っています。
もちろん学校や会社に置き傘をするという問題解決手段もあります。
しかし、置き傘をし忘れたとか折りたたみ傘を忘れるという人的ミスは起こりえます。
そんなときに活躍するのが「家族によるお迎え」です。
昔の漫画には、雨の日に会社帰りのお父さんを子供たちが迎えに行くという描写があったように記憶しています。
お父さんにとっては、雨という嫌なことが子どもたちとの楽しいひとときに変わるわけですから情緒深い出来事です。
ところが、最近はコンビニが乱立し、田舎でも駅前にコンビニがあるのが当たり前になってきました。
それにより、前述したような情緒が失われてしまいました。
物よりもコトを重視するようになった時代に、コンビニ(エンス)により大事な時間が失われてしまうというのはなんだか悲しいように思えます。
移動に関する便利さを突き詰めた究極の姿は、恐らく「どこでもドア」であり、旅の情緒も何もかも奪ってしまうのだろうなと思います。
どこでもドアが発明されたら意外と旅行に行く人は減ってしまうかもしれません。
だって、いつでもどこへでも行けるのなら今行く必要なんて無いから。
私は有名な観光名所である東京タワーに登ったことがないのですが、これも上記と同様の理由です。
さて、先程は日常生活についてでしたが、便利さを仕事の場に適用することは、生産性を高める上で当たり前のことです。
たとえば、一人が製品を最初から完成まで一貫して行う形式から、同じ人が同じ工程を繰り返すベルトコンベア方式に変わったことにより、生産性は爆発的にアップしました。
代わりに、仕事のつまらなさも恐ろしくアップしました。
仕事の意義・やりがいを考えたときに、一人が全行程を行う前者だったら「購入してくれた人が笑顔になってくれると嬉しい」というようにやりがいがありますが、後者のベルトコンベア方式で完成した製品の一工程を担った人には前者のような感情は湧いてきません。
便利になった結果として起きるのは、従業員のメンタルの不調でしょう。
現代社会が病んでいるのは、こうした合理化や便利さを過度に追及してしまったせいではないかとも思えます。
逆に考えると、仕事でメンタル不調になった人は、わざと不便なことに携わると、生きていることを実感することができるのかもしれません。都会で生活している人がキャンプを好むように、合理性の中で生きている社会人こそ、不便を味わったほうが良いのかもしれません。
・・・と考えると新しいビジネスアイデアが生まれて来そうですね!
スシローのおとり広告問題は批判される一方で
一種のエンターテインメントとしても消費されていますよね。
昔から映画とか漫画、ゲームの業界でも駄作マニアが一定数いましたし、
SNSが普及したことで不便なもの・不完全なものを
エンターテインメントとして消費する文化がもっとメジャーになっていくかもしれません。
面白い考え方ですね!仰る通り、ゲームでも映画でも不完全・劣った部分を愛するB級マニアは一定数存在しました。
今後は普通に考えていたら思いつかない意外なものがエンターテイメントとして喜ばれるようになるのかもしれませんね。