争いを終結させるというような大きな問題の解決策を考えるのは初めてですが、今回はツールを使わずに考察してみたいと思います。
戦争、テロ、虐殺・・・フィクションの世界ではよく聞きますが、聞くだけで暗い気分になってしまう言葉ばかりです。
言葉だけでなく、これらが身近で実際に起こったら、と想像すると恐ろしくなってしまいますね。
日本人は平和ボケしているから、戦争を経験したほうがいい、という極論を聞くこともあります。
確かに島国日本は平和ボケしていて緊張感がありません。
たとえ外国で銃の乱射事件やテロが起きてもどこか異次元のこと、というように捉えている風潮があります。
最近の大きな事件ではパリのテロが記憶に新しいでしょう。
*この記事も旧ブログのもので、実際に書かれたのは3年近く前です。
これに関し、「テロリストたちは断固許さない!」と発言をする人もいれば、Tシャツなどにパリへの祈りのマーク(エッフェル塔のイラスト)を付けている人もいます。
さて、直接被害を受けたわけではない私たちは何をすべきなのでしょう。
パリへの祈りのマークのキーホルダーを持つべきでしょうか。
被害者のために祈るべきでしょうか。
どちらも何か違う気がします。
もちろん「祈り」という行為は賞賛される行為です。
化学的にはまだ解明されていませんが、スピリチュアルには懐疑的な私でも「祈り」は大きなパワーを秘めていると思います。
しかし、祈るだけでよいのでしょうか。
というのも、被害者のために祈る、ということは、逆に言うと、加害者を呪うことに近いのかなと思うからです。
「加害者に罰が下ればいいのに」、「神はテロリストのような者を決して許さない」という気持ちが祈りの中に込められている恐れがあります。
ということは、結局目には目を歯には歯を、の世界です。
やられたら倍にしてやり返す。
これはフィクションの中なら小気味良くていいのですが、現実世界でこれをやってしまうと、際限のない憎しみの連鎖に繋がります。
では、祈ることも許されないなら何をすればいいのか。
一つには「相手の立場に立ってみる」という子供でも分かる単純なことがいいのかなと思います。
嫌なことをされたら嫌なことを返してやりたいという気持ちは人間の本能です。
しかし、逆もまた本能です。つまり、良いことをしてもらったら返報したいという思いを人は持っています。
ですから、嫌なことをされたら、それを自分で受け止めて自分の中で消し去って、善のエネルギーにして見知らぬ他者へ返報することができれば、争いは拡散しないはずです。
・・・理論的には。
ダイエットを成功させるには食事の量を控えてたくさん運動をする。
というのと同じで、言うは容易く行うのは難しいことです。
簡単にはいかないでしょう。
コンビニの店員の無礼な態度にイラついたから、誰かが困るように道路にガムを捨ててやる、ということのほうが精神的に楽ですから。
テロリストや超ムカつく上司なんて人間じゃない!と思って憎むほうがずっと楽です。
憎しみの感情を自分の中で消滅させるってかなり難しいです。
でも、憎しみを消滅させることが出来れば、自分自身をも救うことになるから結局自分も他人も幸せになれるんですけどね・・・。
他人を攻撃するひとはわけもなく攻撃しているわけではありません。
どこかで受けた非難やストレスを自分の中で昇華出来ずにいて、他人にぶつける機会を無意識のうちに探していて、その怒りをたまたま見つけた羊にぶつけているだけです。
そういう人は精神的に弱いことが多いので、匿名性という隠れ蓑に隠れて一方的に攻撃をします。
ネット社会で問題視されていますね。
最近ではTwitterの匿名アカウントを使って弁護士を攻撃した新潟日報の坂本秀樹報道部長の事件などがあります。
同じように精神的に弱い人のよく取る手段は「逃避」です。
汚い現実社会が嫌になって別世界へ逃げます。
純粋過ぎるが故の行動です。
ただ単に働くのが嫌なニートとは違いますから、もうちょっと自分を出してもいいんだよ、と勇気づけてあげれば、根が素直なだけに時間はかかっても現実世界に戻ってきてくれる可能性が高いです。
反撃すると憎しみの連鎖を繋げることになりますから、反撃せずに閉じこもってしまうほうがマシです。苦しむのは自分だけですから。
ただ、そんな人も、自分を好きになることができるようになると「逃げちゃだめだ!」と思えるようになるはずです。
反撃するにせよ逃げるにせよ、誰かが苦しむので、「苦しみを消滅させる」ということは今、非常に求められていることです。
しかし、残念なことにそれをビジネスにする胡散臭いスピリチュアル活動家が現れてしまい、本当に頑張っている人も一緒くたにされています。
悩ましい限りです。
ちなみに、ちょっと前にネット上で流行っていた「ご飯を食べられない子どもたちの気持ちを理解するためにシェアをする」という動画を3歳の娘に見せたことがあります。
その動画は「小さな子どもたちでも自然にシェアをしています。だから、大人もシェアを出来るはずです」という感動的な内容でした。
しかし、娘に「分け合うっていいね。美味しいお菓子をお姉ちゃんと一緒に半分こして食べられるかな?」と聞いたら、お姉ちゃんと喧嘩直後だったこともあり、娘は「嫌!」っと言って泣き出してしまいました(笑)。
「美味しいの全部食べたいの!」・・・って可愛い顔して言われても・・・(笑)
まあ、普段は姉妹仲良く半分こして食べているので大丈夫だとは思うのですが、他者の気持ちを思いやる教育は前途多難です・・・www
争いを無くすには、一つのルールに皆がまとまるだけでよい。どんなルールであれ、一つのルールにまとまれば、それだけで争いはなくせる。ただし、争いをなくせるだけで問題が無くなる訳ではない。問題が残る以上、そこからほころびが生じて、争いの元が生まれてくる。不満や怒りや欲などが抑えきれなくなり、ルールによって一時的に争いがなくなっていた状態が通用しなくなる。
この問題を解決するには、ルールを完璧にする必要が在る。完璧なルールは、皆が納得できるルールではなく、皆が納得せざるを得ないルールにしなくてはならない。皆が納得せざるを得なければ、間違いを指摘されれば誰しもばつが悪くなり力を発揮できなくなり結果としてルールに従わざるを得なくなる。ただし、このルールは初めにあるとおり、一つのルールに皆がまとまる必要がある。これは文化を統一するとか文明を共有するとかではなく、思想を統一する事をいう。こういうと、宗教がそうではないかとなるが、宗教は教えを共有することで成り立っている様に感じる。そうではなく自分自身で事の良し悪しを考える。そのときは真心、愛、思いやり、これらを持った上で考える。そうすれば、おのずと最善最良のルールが人や法に頼らずとも解る様になってくる。そうなってきたら一人では考えきれない部分は、他者に頼り、ルールを作っていけば、他者が作ったルールも一から考える必要はなく一人で考えるに十分な余裕が出来、結果として自分で考える事が出来る。
この最善最良のルールが、本来の悟りで気付く、人の世の理なのです。