私がいなければこの世の悪は全て見えなくなる。でも、なくならない。
– This looks like a great quote,but it isn’t.
常日頃、我々は残虐なニュースを目にします。
耳を疑いたくなるような事件もあります。
聞くだけで胸が痛くなるようなニュースも日常茶飯事です。
しかし、悪はなくなりません。
また、こうした「悪」を他人事として捉えている限り、悪は減らないと思います。
「そんなこと言ったって、自分に何ができるのか」「人間の本性は悪なんだよ」
そう考える人もいるでしょう。
しかし、どんな悪も自分とかけ離れた存在ではないと認識すると問題解決の役に立つと思います。
たとえば、極論ですが、「世界中のすべての問題は私のせいで起こっている」と想定してみます。
なぜなら、私がそれを悪であると認識しない限り少なくとも私の認知できる範囲内では悪は存在しないことになるからです。
そのため、高齢者による暴走運転もロシアの暴動も日本の経済低迷も全て私のせいということになります。
逆に言うと、私がこれらに思いを馳せることが無い限り、これらの問題は存在しないことになります。
・・・でも、これって詭弁ですよね?
私がいようがいまいが世界は存在するし問題は起こる。
これが正しい考え方だと思います。
でも、一人ひとりの力はどんなに弱くても、大勢の人が自分ごととして問題を捉えるとそれは世界を変える力になり得ます。
そうして歴史は作られてきましたし良い方に進んでいるはずです。・・・はずです。
では、力なき弱い一般市民が悪と対峙するにはどうしたらいいか。
その第一歩は、悪の知であると考えます。
これは無知の知から作った造語です。
すなわち、自分が悪であると認識することです。
人は、他者を批判することは得意です。
安全圏から石を投げるのは気楽だからです。
でも、自分を悪と認識していると容易には石を投げられなくなります。
それでも石を投げます。
その石は自分に跳ね返ります。
その痛みが世界を変える力となります。
力なき弱い我々が考え方を変え、自分のなかの悪を責め、より良くなろうと努力するその過程が悪を減らすのです。
法律違反になるからとかそういうことは置いておきます。
倫理的に正しいかどうか、それを判断基準にします。法治国家の理念に反する行為です。
悪い方向に進むと、私人による「お気持ち」裁判が蔓延します。
でも、良い方向へ進んだら?
倫理国家の誕生です。
ただし、国民の大半が倫理的であることが条件です。
・・・いや、そんなん無理じゃね?
「自分」と「他人」の垣根を取り払い、自分側を善、他人を悪とレッテル貼りするのを辞めたら、可能かもしれません。難しいですけどね。