著作物と認められるためには、思想又は感情の「表現」であるということが必要です(著作権法第2条1項1号)。
ということは、「表現でないもの」は著作物ではありません。
たとえば、アイデアや事実や事件そのものなどが該当します。
理論や学術、思想自体などもそうです。
小説の作風や漫画の画風もそうです。
では歴史上の事実についてはどうでしょうか。
歴史上の事実と著作物性
著作権法10条2項には以下のように規定されています。
「事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は著作物に該当しない」
したがって、ニュース等は著作物とはいえないことになっています。
また、歴史上の事実や歴史上の人物に関する事実、歴史的事件、人々の暮らしのデータなどは、「人の思想又は感情」とは言えませんから著作権は発生しません。
ある歴史的新事実が発見された場合もその事実については著作権は発生しません。
もしこのようなことを著作物として保護してしまうと、表現の自由や学問の自由などを制限することになってしまうからです。
ここで注意すべきなのが、歴史的事実が記載されていても、それが創作的に表現されている場合には著作物性が認められるということです。
わかりやすい例として、歴史の教科書に何の感情も交えず、淡々と事実を説明しているような場合には著作権は発生しません。
しかし、難しいのは、ちょっと文章を変えただけで「思想や感情が表現される」という点です。
ごく単純に見えるような文章でも、ノンフィクションライターが綴ったものと小学生が書いたものではまるで違います。
小学生が書いたものは語彙が少ないのですが、プロの文章は豊富な知識と語彙に裏打ちされ、理路整然と書かれています。
無機質に書かれているように見える文章でも、そのドライさの中に思想や感情が表現されていることもあるので、判断は難しいものです。
私としては、「事実といえども創作的な部分には著作権を認めていくべき」と思います。
そうしなければ、ノンフィクションライターの書いた文章はコピペし放題という状態になってしまうからです。
ノンフィクションライターの文章には一切著作権が発生しないなんておかしいですよね。
歴史上の事実を書き記していくと、書く人にとって重要と思うものはたくさん採り上げ、重要でないと思うものはあっさりと、場合によっては書かないということもあるでしょう。
すると、その取捨選択に創作性を見いだせるといえます。
取捨選択に思想が現れるのです。
取捨選択というと、「歴史教科書問題」が想起されます。自国に都合の良い事実だけを載せ、都合の悪い事実は載せないという手法を問題視することです。
たとえば、ドイツではネオナチと呼ばれる「ナチスは必要だった」と考え、ナチスを復興させようとする人たちがいます。
普通の感覚では「なぜ?」と思ってしまうでしょうが、ナチスを悪と捉えているのは一般的な倫理観を持った人と被害者だけです。
ナチスの側にいた人やナチスに守ってもらっていた人たちにとっては、過ごしやすい時代でした。
(経済的閉塞感から、外見からでは見分けのつかない同じ人間を極度に迫害していた異常な時代だったとも言えます。ここから学べることは非常に多いでしょう。)
そのため、ナチスにとって良い面だけ(たとえば、ヒトラーは暴飲暴食をせず、極めて真面目で良い人だった。)を採り上げて、悪い面(大虐殺など)については触れなかったり別の理由を付けて正当化するのです。
歴史教科書では「全てを漏らさず書く」のではなく「故意にある事実について触れない」ことにより印象操作をしようとします。
この印象操作は、歴史に限らず、引用の仕方によりいくらでも白を黒に、黒を白に見せることができるので危険な手法です。(たとえば、「ドイツでは、ナチス政権下、ユダヤ人は大量虐殺されたがそれまではささやかながらも幸せに暮らしていた。」という文章があったとして、「大量虐殺されたがそれまでは」の部分を削って引用すると意味が違ってしまいます。)
歴史上、上から命じられて殺人を犯した人たちは、ごく普通の人たちです。
アイヒマンもヒムラーも身近な人にとっては素敵な人でした。
ヒムラーは娘であるブルヴィッツを溺愛するなど子煩悩で有名でした。
怖がりな凡人で、傷つけられることだけでなく他者を傷つけることすら恐れる我々だって、極限の状態で上から命じられれば、殺人をしてしまうでしょう。
外見では判断できなくても、◯◯人という枠組みで捉え、いくらでも残酷になれるのです。
このように、どれだけ優しく見える人だって殺人者になるということを学ぶということが歴史を学習する大きな意義の一つだと思います。
そう考えると、誇張や隠すこと無く真実だけを淡々と伝えてくれる歴史教科書はどれだけ重要かわかると思います。
ドイツでは歴史の授業でナチスの犯した罪について深く学びます。
だからといってドイツの人たちはドイツが嫌いだということではありません。
自国の負の歴史を学ぶということは、愛国心が無いということではなく、負の部分も含めて真摯に歴史に向き合う勇気ある態度だと思います。
さて、歴史的な事実そのものではなくて、歴史的な事実を元にして小説などを書いた場合にはその文章には著者の個性が現れており、著作権が発生することが多いでしょう。
しかし、著者の思想や感情を表現する際に、表現方法が限られている場合があります。すると、思想(感情)と表現の混同が起こります。
混同が起こった場合、表現されたものには作者の個性は現れません。
したがって、著作物とはされません(米国法によるマージ理論)。
たとえば、過去にも書きましたが、金魚電話ボックスも、パッと見て外観がそっくりなので、著作権侵害に見えてしまいます。
しかし、過去記事で述べているように、これは表現物の模倣というよりもアイデアの模倣であり、著作権で保護されるものではないでしょう。
金魚電話ボックスが著作物として保護されるとしたら、金魚が泳ぐことによって表現するものなど、かなり限定されます。
また、誰が創作しても同じような表現にしかならざるを得ないものについては、独占権を与えることによる不利益が大きいので創作性は否定されることになります。
歴史的事実の話に戻りますが、だれが書いても同じような表現にならざるを得ないものやありふれた表現部分には著作権は発生しないと言えるでしょう。
これは、どの部分がどう、と簡単に説明できるものではないのでややこしく難しいのですが、裁判になったら細かに検証されることになるでしょう。
歴史的事実と情報の信頼性
最後に、歴史的事実について書く場合の注意点について述べたいと思います。
歴史というものは「実際にあったこと」であり、「後世の人が作り出したもの」ではありません。
後者はフィクションです。
しかし、過ぎ去ってしまった過去について検証することは困難なので、歴史について述べた本については情報源の信頼性が重視されます。
たとえば、一定の信頼できる新聞や雑誌に掲載された論述、政府など信頼できる機関が出しているデータベースについては安心して使えるでしょう。
発信した者、情報について責任を持つ者が誰だか分かるからです。
子供や学生用の歴史の本にも必ず参考文献が載っています。
たとえば、角川まんが学習シリーズ『日本の歴史』という本を見てみました。
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小畑健氏、近藤勝也氏、いのまたむつみ氏など人気漫画家・イラストレイターが表紙を描いており(中身の漫画は違う人)、子どもたちに人気のシリーズです。
奥付を見ると、監修者として東京大学の山本博文氏の名前が挙がっています。
また、主な参考図書・資料として、『新しい社会 歴史(東京書籍)』『歴史をつかむ技法(新潮社)』『国史大辞典(吉川弘文館』・・・などなど、多くの参考書籍が載っています。
WEB資料としては、『国立国会図書館デジタルコレクション』『国立歴史民族博物館』などなど・・・が記載されています。
似たようなことはwikipediaにも記載されているのですが、大学で学ぶように、論文等を執筆するときは、情報源としてwikipediaに頼ることはご法度です。
記事が匿名で書かれており、査読プロセスも経ておらず、情報に責任を持つ者がいない信頼性の低い情報だからです。
では、フィクションを書く場合はどうでしょうか。
これについては、出来る限り参考にした資料や書籍についての情報を載せるべきだと思います。
なぜなら、そのフィクションが素晴らしければ素晴らしいほど、「なぜこの作家がこのような思想に至ったのか」ということを検証する際に有効な資料となるからです。
時間が経てば経つほど、小説を執筆した本人も参考資料については忘れてしまうでしょう。
したがって、自分のためにも参考図書については記載しておくべきだと思います。
参考された側としても嬉しいでしょう。
このようにして、文化は発展していくのだと思います。