
7月18日に選考される第159回芥川賞の候補作に選ばれた北条裕子氏(32)の小説「美しい顔」(5月に群像新人文学賞を受賞)の作中に他のノンフィクション作品等と類似した表現があることが各種ニュースにより明らかにされました。
当該作品を掲載した文芸誌「群像」を出版する講談社は、群像の8月号にお詫びと参考文献一覧を掲載するそうです。
講談社によると、石井光太氏の作品「遺体」と重なる表現が複数あるようです。(たとえば遺体安置所の描写など)
また北条氏は石井光太郎氏の作品の他にも4作を参照していますが、いずれも参考文献として示していませんでした。
北条氏の作品は、北条氏自身が災害を経験していないことから(そもそも北条氏は被災地に行ったことが無い)、参考文献無しに書くのは困難な作品です。
被災地に行ったこともないのに想像力だけで書き上げた点を評価されたようですが、実は想像力だけで書いたわけではなくて、ノンフィクションを参考にしていたわけです。
もちろん参考文献を記載するのは絶対的な義務ではありませんが、参考にしただけなら堂々と記載できるはずです。
大学でもレポートを書くときに「参考文献をあげてください」と学んだはずです。
北条裕子氏が参考にしたその他の文献一覧
3.11 慟哭の記録―71人が体感した大津波・原発・巨大地震
文藝春秋増刊「つなみ 被災地のこども80人の作文集」 2011年 8月号
北条裕子氏の場合は、参考にするだけでなく、表現を真似てしまっています。この行為は著作権法上、複製権の侵害、翻案権の侵害、同一性保持権の侵害、氏名表示権の侵害になります。
(リンク先は私の知的財産権に関する法律の説明サイト)
*追記:読み比べてみました。完全なるデッドコピーではないので著作権の侵害だとは断定しにくい部分もあります。著作権法は表現されたものを守る法律ですので。
実際、表現を変えて自分のものとして発表する人は山のようにいますので(特にネット上でよくみかけます)盗作しているという認識が薄かったのかもしれません。
しかし、剽窃された側の気持ちを傷つけるという意味では望ましい行為ではありません。
こういった行為を防ぐために何らかの規定を設けられるといいですね。
現在はモラルの問題として捉えられていて、私刑にあうだけのようですが(それでも十分に作家生命を失わせる力はある)。
盗作行為は先人の著作に対する冒涜であり、作家として生きていく人間にあるまじき行為です。
盗作された著作権者が望めば、刑事罰の適用もあります。
このような盗作を見抜けなかった群像新人文学賞の選考委員及び芥川龍之介賞の選考委員も責任を追求されそうです。
また、群像新人文学賞の受賞自体を取り消すこともありえます。
なぜなら、このような継ぎ接ぎだらけの短編に新人賞を与えることは、文化の発展のためには望ましいことではないからです。
最初から引用元を示していたならば、翻案作品としての価値もあったかもしれません。
(ただし、デッドコピーの部分はダメ。複製権の侵害。)
また、参考にしつつも、全く別の作品として成立させることはできたはずです(というかしている人たちはいくらでもいます)。
しかし、引用元や参考文献を示すということは著作者であるならば簡単にできることであり、そしてやらなければいけない行為であるにもかかわらず、これを怠ったということは、盗作と判断されても仕方ありません。
また、著作権の侵害とはならない場合でもマナー違反ということで、ネット上で「私刑」に遭うことは容易に想像出来ます。
(過去にも著作権の侵害はしていないがアイデアを盗んだことにより私刑にあった人もいます。これは漫画や小説のような分野で多いでしょう。)
著作権の侵害も剽窃も誰もが容易にできることです。
もしこのような継ぎ接ぎ作品が作品として認められるならば、AIの方が精度の高い創作を生み出すことができてしまうかもしれません。
それでは作家という職業の存在自体が無に帰してしまいます。
オリジナリティにこだわることは、作家としての当然・必然の矜持であるといえるでしょう。
「簡単にできるから」「ちょっと参考文献を書き忘れただけ」そうした言い訳は、先人の著作財産権及び著作者人格権を傷つけます。
著作物を利用する立場からは気づきにくいことですが、作者になれば、自分の作品が盗まれたら許せないという気持ちはわかるはずです。
著作権者への創作への敬意を無視することは、著作物を生み出す作家の作家生命を絶つほど深刻な問題だといえます。
法律がどうこういう前に、マナーというか、創作を生み出した人への敬意というものを表現できる良い方法があるとよいのですけどね。
(パロディやオマージュなんかは元ネタを言ってしまうと無粋という面もありますし難しいですね。)