*この記事は旧ブログ「問題解決中」の記事と同じです。実際に描かれたのは2年ほど前です。リンクを下さっていた方はこのブログのアドレスに設定し直してくださると助かります。

 

恐怖という感覚は私達を危険から守るために重要な役割を果たしています。

 

しかし、同時に行動することから逃げるための口実も与えています。

猛スピードで近づいてくる物体から逃げるという行為は自分の身を守るために大切な行動でしょう。

 

しかし、「自分の身を守るため」という理由ではなく、「怖いから」という理由で逃げることは、逆にダメージを蓄積することになりかねません。

 

たとえば、不登校。

 

クラス替えが行われ、いじめっこグループとはお別れして心機一転新しいクラスで楽しく学校生活を・・・

 

とは思うものの、過去のイジメの記憶が蘇り、怖くて学校にいけなくなってしまうことがあります。

 

しかし、義務教育を受けるのを拒否すると、他人はいじめられっ子に同情するどころか、学校に適応できないはみ出し者というレッテルを貼るため、後になって苦労することになります。
学校よりもさらに恐ろしい「普通でない人を受け入れない」社会が待ち受けています。

 

普通に生きている人たちは、いじめられっ子が自殺したり殺されたときは同情するくせに、身近にいじめられっ子がいても知らんフリします。

 

また、怖さのレベルが違いますが、予防接種も同じです。

 

子供は(大人でさえも)注射を打つ前には恐れ、泣きわめきます。
注射を受けずに逃げれば痛みを感じる必要はありませんが、後に病気に感染してもっと苦しい思いをする可能性があります。

 

 

これらの問題を解決するためには、「恐怖を感じなくなる」のが一番です。

 

恐怖を感じなければ無駄に考える時間が要らず、迅速に結果を得られるからです。

 

では、どうすれば恐怖を感じなくなるでしょうか。

 

 

そのためには、「他者のことや痛みを想像(妄想)をすることをやめて、無心で行動する」と良いでしょう。

 

学校に行けないのは、想像の中の学校が怖いからです。

実際の学校も恐ろしい場所でしょうが、想像の中ではさらにその恐怖が増幅されているはずです。

恐怖の反対の感情に楽しさというものがありますが、これも想像によって増幅されます。

 

遠足に行く前のほうが楽しいというのも、想像している時が楽しいからです。

美人とのデートも、デートの後に自慢している時のほうが楽しかったりします。

友達に美女の写真を見せながら、俺はこんな美人と付き合っている、と自慢して悦に浸ります。

そこには比較対象である「他者」がいます。

「美人と付き合っている俺」と「それを見ているだけの残念なやつら」という比較です。

 

話を「恐怖」に戻すと、「恐れている自分」と「そんな自分を冷たい目で見る多数の他者」という構図が出来上がります。

顔の見えない攻撃者ほど恐ろしいものはありません(インターネットでいうと匿名の攻撃者でしょう)。

 

想像すればするほど恐ろしくなって行動なんてできなくなります。
しかもその「攻撃」は実際に他者から受けているのではなく、想像(妄想)をしている本人が自分で自分を攻撃しているだけですので、より消耗します。

 

「恨み」という感情も似ています。

 

誰かに恨みを抱くと、想像の中でその人を貶すと、その相手を攻撃しているようでいて、実は想像の中で自分で自分を攻撃しているだけという一人芝居を繰り広げています。

 

このように「想像(妄想)が生み出す痛みや他者」というものは実に厄介なものです。

 

ここで、認識したいのが、

 

「楽しいという感覚」は、「今この瞬間楽しいことが起きている」ということと必ずしもイコールではないということです。

 

同じように
「怖いという感覚」は、「実際に恐ろしいことが起きている」こととイコールではありません。

 

あくまでも想像の中だけの話です。

 

・・・ということは、想像しなければいいわけです。

 

「無心で行動」すれば恐怖は湧いてきません。

(逆に楽しさを感じるには楽しさの最中におもいっきり全身で楽しさを感じればより楽しめるでしょう)

 

バガヴァット・ギーターの中で、クリシュナがアルジュナに
「行動による対価を期待せずに無心で行為せよ」
と命ずるシーンがあります。

 

名誉や栄光のために戦うのではなく、果実を期待せずにただ行動するのです。

 

これは実に困難です。

 

人間は欲深い生き物なので、「行動に理由を求めてしまう」からです。

 

これをすれば、人からすごいと思われるだろう。

これをすれば、人から褒められるだろう。

これをすれば、儲かるだろう。

 

・・・このように頭のなかで無意識に小賢しく計算してから行動をします。

 

そして、計算通りの結果が得られなかった時には落胆します。

 

しかし、この「事前に計算をする」ということを辞めた場合はどうなるでしょう。

 

楽しいことを想像してワクワクすることもなくなれば、恐ろしいことを想像して恐怖に怯えることもなくなります。

 

このように、「想像」を止めた人間は、「人間らしくない」人間になります。

 

神に近くなるとでもいいましょうか。

 

しかし、逆説的ですが、それにより、「他者を幸せにし、また自分も人として幸せになれる」と思うのです。

 

なぜなら、全ての苦しみは妄想が生み出しています。

 

人は空腹よりも「何も食べられないかもしれない」という絶望で死にます。

逆に、どんなに苦しい生活でも「希望」さえあれば生きていけます。

 

ここでまた難しいのが、「希望」の定義の仕方を間違えるとその希望はすぐに絶望に変わってしまうということです。

 

たとえば、いじめっこと違うクラスにさえなれば自分は変われる、という希望を持っていた場合、もしそのいじめっ子と同じクラスになってしまったら希望は一瞬で絶望へと変わり、自殺したい欲求に駆られるでしょう。

 

ですから、「希望」という行動の果実を求めずに、無心に行動することが大事です。

 

・・・とはいっても、無心で行動するなんて普通に生活していたら、まず出来ません。

 

ですから、普通の生活を送りつつも、日常生活から離れて瞑想で思考をストップしてみたり、大きな目標を一つ掲げてそこからブレないようにして予定をたくさん詰めて忙しくするといったことをしていれば「無心で行動する」ということが出来るかもしれません。

私も修行中なんですけどね。
もう10年以上も・・・(ーー;)

 

ちなみに「果実を求めずに無心で行動する」というクリシュナの教えに感銘を受けた哲学者というか思想家であるシモーヌ・ヴェイユという女性がいるのですが、彼女の書き溜めたメモなどをまとめたものが本になっています。

 

この人は実生活のなかで教えを実践しているような人で、天才なのですが、「でくのぼう」みたいな生き方をしています。

自分の所有するお金も食料も全て他人に与え、最後は餓死しています。

彼女の生き方は愚かに見えるので人によっては彼女の生き方が嫌いな人もいるでしょうが、私はすごく尊敬しています。

 

彼女の本「重力と恩寵」は翻訳されているのでぜひご覧になってください。
重力と恩寵
[PR]

私は、無人島にたった一冊だけ持っていけるとしたらこの本を持って行くと思います。

 

人は、放っておくと重力によって下へ下へと引っ張られてしまうそうです。

Trizの技術的問題解決で「科学的なことを非技術的なことへ応用する」ときによくこのことを思い浮かべてしまいます。

重力で下に引っ張られないためにどうすればよいか・・・この本が教えてくれます。