『罪のない者が最初の石を投げなさい』個人と企業の倫理

漫画やドラマのようなエンタメでは、「復讐」は永遠のテーマです。
この世は理不尽だからこそ、恨みを晴らしたい、罪を犯した人を懲らしめたいというのは人の本能的な欲望なのでしょう。

しかし、私はこの復讐というテーマがあまり好きではありません。
面白いとは思うのですが、もう使い古されていて食傷気味だからです。

現実の世界では、復讐を企てるほど暇な人は少ないでしょうからリアリティを感じないのも原因です。
さらには、暴力描写を伴うことが多いため、「これを子供が読むのか・・・」と冷めた目で見てしまうからです。

復讐よりも、贖罪の方がテーマとしては好ましいです。
贖罪と言うほどではありませんが、嫌なやつが実は良いやつだったというパターンが好きな人は多いですよね。

完璧な人間など存在しません。誰しも嘘をつき、失敗をし、他者を傷つけます。
不完全なのが当たり前なのだから、悪いことをしたら悔い改め、より良い人間として生きたいと前向きに考えるのが健全で望ましい在り方です。

では、完璧な人がいないのならば、悪いことをした人を責めることができるのは誰なのでしょうか。
公益的なことでも直接の被害者だけが加害者を責めることができるのでしょうか。
たとえば、不正会計によりステークホルダーを騙した会社を責めて良いのはステークホルダーだけでしょうか。
クリスピークリームドーナッツが不正会計を行ってもフランチャイズオーナー等一部の人しか不利益を被らず、ドーナツを食べる消費者に影響は無いので無罪放免でしょうか。
犯罪についてのニュースを見た人たちが加害者を責めることについてはどうなのでしょうか。
また、犯罪とは呼べないようなことについて責められることについても問題があります(例:木村花さんへの誹謗中傷)。

ここで「罪のない者が最初の石を投げなさい」 (John 8: 7,10,11)という聖書の有名な一節を取り上げてみたいと思います。この言葉は完全な者、つまり聖人だけが他人の行動を非難する資格があるという主張を支持するために頻繁に使用されています。

しかし、この有名なフレーズをその文脈から切り離して使用することは危険です。

この引用は「姦婦の物語」からのもので、姦婦に石を投げようとする群集をイエスが諭し、「もう罪を犯してはならない」と諭したものです。これは贖罪の物語であり、偽善に対する警告です。イエスは、特に彼女が石打されるのと全く同じことをした男たちに、正しい怒りよりも同情と共感を求めているのです。(男が女と肉体的関係を持つことは英雄視するのに女が男と肉体的関係を持つと尻軽扱いされるという社会の歪みについても述べていると思われる)

決して聖人だけが他人の行動を非難する資格があると主張しているわけではありません。

誰かが非倫理的なことをしたときに、その人の体を傷つけることに参加することと、そのような行為を否定し、適切な罰を求めることとは、大きな違いがあるのです。
聖書のこの文章を、倫理的に立派な人以外は非倫理的な行為に対して罰を受けたり戒めたりすることはできないという意味に解釈することは、単に説明責任と責任の普遍的な欠如を正当化する皮肉にすぎません。

不倫というものは、当事者には大問題ですが、関係ない人が騒ぎ立てることではありません。公益には関係ありませんから。文字通り二者間において「倫理」的ではないだけです。相手方当事者にとっては許せることではありませんが、関係ない人たちには批難する権利などないのです(関係ない人が慰謝料を請求したら馬鹿らしいと思うのと同じくらい、関係ない人がその人に直接文句を言うべきことではありません)。
また、テレビのバラエティ番組やドラマの内容について不倫をした女を演じた人に無関係の男たちが罵詈雑言を浴びせるのもお門違いです。

不倫をした人を責めた時点で、不倫をした人よりも、当事者以外のその人を責める人たちの方が非倫理的になるわけです。

成人の個人的な愛情に関わる非倫理関係に関しては特に犯罪となることはありません(未成年の場合はたとえば成人が歪んだ性欲をぶつけた場合犯罪となり得ます)。

しかし、公益的な組織や株式会社等が非倫理的なことをした場合は大いに責めるべきです。我々は被害者ではないからといって責める権利は無いと考える必要はありません。
今週のニュースでは吉野家が不適切発言により炎上していましたが、こうした企業の不適切発言に関しては消費者は怒りをあらわにしていくべきです。

会社等は社会的責任を持っているからこそ、我々は社会の一員として企業の暴走を食い止める必要があります。

罪を犯した者の発言ほど厳しく見られるものはありませんし、そんな発言にその人(法人を含む)の可能性が秘められていると考えます。