差別が企業のブランドに及ぼす弊害と差別意識を消す方法

差別意識というものは、多かれ少なかれ誰もが持っているものです。
そして、差別というものは、「区別」と区別がつきにくく、また、差別した側同士が仲良くなれるというような”メリット”もあるので、ブランディング上、「悪」だと言い切れる簡単なものではありません。
(被差別者の立場になれば、”悪”になりうるでしょう。)
 
しかし、企業が差別を行うと、ブランドを傷つける危険性があります。
 
故意の差別であろうが無意識の差別であろうが、顧客はそれを敏感に感じ取るので、新しい商品やサービスをリリースする前には入念に準備をしなければいけません。
 
 
今日は、数日前にアメリカで起こった、とあるブランドのボイコット運動とブランディングについて語りたいと思います。
 

プラダ事件

「プラダ(PRADA)」がコラボレーションプロジェクト「プラダマリア(Pradamalia)」で発売した猿のキャラクター「オット(Otto)」が人種差別的なものであるとして避難され、プラダはオットを撤去することになりました。

 

撤去騒動のきっかけは、ニューヨークの弁護士Chinyere Ezieがフェイスブックにプラダの陳列に関する投稿をしたことでした。

 

猿の「オット」は茶色い身体、黒い顔、赤く大きな強調された唇を特徴としています。

プラダがブランドをリリースした際には、猿をイメージしていることを明記しています。

 

Ezie氏がプラダの従業員にオットの意味するところを知っているかどうか尋ねたところ、過去に黒人差別について指摘した黒人従業員は存在したが、彼は解雇されたらしいとか・・・。

 

Ezie氏の投稿を発端としてTwitterでも議論が白熱しました。

投稿をザッと見てみたのですが、白人vs黒人という図式が垣間見えて、今は西暦何年だ!?とショックを受けてしまいました。

(なお、人種差別的なツイートは投稿者によりほとんど消されていました。)

 

 

確かに、白人から見れば「黒い猿を見て黒人差別だというのは単純過ぎる」のかもしれません。

 

しかし、被差別者である黒人から見れば、十分に差別です。

 

日本人でも「こんなアクセサリーごときに怒るなんてくだらない」と思う人がいるかもしれません。

 

しかし、その感情は、差別される者の気持ちへの「無配慮」から来ているものでしょう。

 

もしこのキーホルダーがイエローモンキーだったら、きっと怒りを感じると思います。 
 

SNSの投稿を見ていると、現代においても、まだブラックフェイス(黒人になりすますために顔を黒く塗る舞台化粧のこと。紙の辞書には載っていないようですが、ネットの辞典では黒人に対する侮辱な行為と説明されている場合があります。)をするCMが存在したり、プラダを擁護する人も存在するなど人種差別の闇を感じさせます。

 
 

黒人差別について積極的に声をあげる人たちの大部分は黒人です。白人の中にはその声に賛同するどころか人種差別を喜ぶ人たちまでいます。
また、「自分たちの肌が黒いことをネガティブにとらえているから差別と感じるのだ」と主張する人もいます。

 

もちろんこれは物事を深く考えていないが故の発言です。
だって、ブラックはブラックであることを恥じてなんていませんから。

猿(=高等な人間ではない)と同一視されていることに怒りを感じているのです。(猿は人間ほど価値はないのか、という議論についてはここでは置いておきましょう)

もちろん全ての白人がこの差別を喜んでいるわけではありません。
差別を撤廃しようと訴え続ける白人もたくさん存在します。

 

Ezie氏は、黒人であり、さらに女性でもあるので、最も差別されている立場にいます。

白人でも女性なら差別される苦しみを分かりそうなものですが、悲しいことに、精神的に未熟な人間は、弱い存在に寄り添うのではなく、”自分より劣っている”と思い込める存在を見つけて叩きます。

倫理観や共感力が低いとこのような思想に染まりやすいのでしょう。

自分が一度でもいわれなき差別に苦しんだことがあるのなら共感力を示せそうなものですが、そうではなく、逆に差別者=力を持つ者になりたいと考えてしまうのは心の弱さがなせる業でしょう。

 

収入が低いことを馬鹿にされたことにより奮起して起業するとか、容姿を馬鹿にされたことによりメイクをして美人になる、というのはポジティブな対応ですが、絶対に変われないこと=人種について差別をするのは卑怯でしょう。

さて、Ezie氏の投稿が話題になると、プラダは公式SNSにより、「プラダマリアのキャラクターは想像上の生き物であり、現実世界を意識しておらず、ブラックフェイスを表現したものでもない」と釈明しました。

そして、プラダは、ブランドとしてあらゆる人種差別は断じて許さないと表明し、猿のキーチェーン(ちなみにお値段は約8万円)などをディスプレーなどから削除しました。

しかし、時既に遅し・・・。
プラダ商品のボイコット運動は続いているのでした・・・。

 

日本における差別

日本でも企業の無意識の差別により炎上事件なんて何度も起きています。

 

男性だけで企画したイベントが女性差別的だとして炎上するということは頻繁にあります。

 

富裕層と貧困層の差が広がり「一億総中流社会」なんて過去のものになった今、「セレブ」と呼ばれる人々の発言が疑義を生じることがますます増えるでしょう。

この騒動は外国で起こったことだからと無関心ではいられません。

明日は我が身です。

 

メディアも報道の仕方に責任を持たなくてはいけません。

 

「お金を持っていることは素晴らしい」という価値観の下、報道を行うと、どうしても経済的弱者を虐げる思想が広まってしまいます。

そして、「お金を持っていないから不幸である。お金を持っていない子どもたちは不幸だ」とする誤った思想が広まることにより貧困家庭の子供がより生き辛くなるでしょう。

また、逆に、単なるやっかみや嫉妬により、”権力者”の発言が曲解されてしまうこともあるでしょう。

 

人は、何らかのきっかけがない限り「被差別者」の気持ちを察することはできません。

生まれたときから裕福な人が、勉強をあきらめて就職する人の気持ちを分かれと言われても難しいでしょう。

アフリカに産まれ飢えに苦しむ子どもたちの気持ちを理解することは難しいですよね。

しかし、私は教育によりある程度は(完全には無理ですが)この差別意識というものは是正できると考えています。

たとえば、差別により起きた歴史的悲劇(ホロコーストなど)を学ぶことにより、差別の愚かさを学べるはずです。(普通の人がいとも簡単に他人を殺すことができるのだということも)

自分がいじめられる立場になれば(これを教育の場で行うのは一歩間違うと本当のいじめになるので怖いのですが)、いじめをすることの残酷さが身にしみて分かるはずです。

身体の一部が不自由な人と特殊な場所で交流すれば、その人達しか持ち得ない価値というものに気づけます(たとえば、真っ暗闇の中にいれば、目の見えない人は簡単に歩き回れるのに、目の見える人はオロオロするばかりです。
時と場所が変われば長所と思っていたことが短所に、短所と思っていたことが長所になってしまうことに気づけるのは素晴らしい体験です)。

日本における無意識の差別

さて、日本には、未だに「差別」を当たり前のこととして受け入れている業界があります。

たとえば、美容業界。

美容院では、「外国人風カラー」「外国人に見えるイルミナカラー」という文句が当たり前のように使われています。

これは、「白人が美しい。日本人は少しでも白人に近づくべき」という無意識の現れです。

(そういえば、石森章太郎氏のサイボーグ009でも、フランス人のフランソワーズは美しく描かれていたのに、ブラックのピュンマがかっこ悪く書かれていたのでアニメ版ではかっこよく描き直されています)

 

メイク業界でも「彫りの深い外国人の顔立ちになるメイクの方法」なんていう文言がいくらでも見受けられます。

立体感を出し、いかに外国人に近づけるか、どれだけハーフっぽく(ちなみに、ハーフなら美形、というのもまた固定観念であり差別です)見られるか、がメイクの重要ポイントとされています。

 

現代日本女性の美意識として、「白人女性のような彫りの深い顔立ち、ガリガリの体」が美の基準とされています。

ここから外れると、「ブス」になります。

もちろん、標準体重や日本人顔を活かしたメイクというものもありますが、少数派です。

欧米崇拝は程々にして、アジア人の美しさを活かしたメイクをしていくほうが自然で良いのになあと思ってしまうのは私だけではないでしょう。

 

ちなみに、「メイクはマナー」とされているのは日本において顕著です。
外国ではそもそもメイクをしない国もたくさんあります(台湾では全然メイクをしませんし、ドイツでもメイクはしたい人だけがするという感覚のようです)

 

日本では、公の場では女性はメイクをして美しくしなければならないという強迫観念が女性を苦しめているという事実に気づくには、女性でないと難しいでしょう。

 

私もメイクは面倒なので大嫌いです。手先が不器用なためメイクが下手で、メイクをしても全然綺麗に見えないので余計です。

よって、基本的にほとんどメイクはしないのですが、外に出るときは仕方なくメイクをします。

一方、楽しんでメイクをする女性がいることも、また事実です。

 

そのため、メイクをしたくない人の気持ちが配慮されることをより難しくしています。

こういうことは当事者でないと簡単にわかることではないのでどんなに頭の良い男性でも理解することは困難です。

ですから、女性が積極的に発言をして、こういう苦しさもあるんだという気づきを主張すると良いのではないでしょうか。

男性差別について

また、逆に男性には男性特有の悩みというものがあります。

(もちろん「多くの男性に当てはまりやすい」「その傾向がある」だけであって、全ての男性に当てはまることではありません。

すべての人が同じ悩みを持っているわけがありません。)

たとえば、男性は「強い」「泣かない」ものと思われていますが、これは社会による強制です。

 

男は強くなければならないという暗黙の決まりがあります。

男性だって、いえ、男性の方が「優しく、弱い」のにもかかわらず・・・です。

男性は情が深く、甘えん坊で優しくて泣き虫です。

 

本当は男性だって泣いていいのです。
なのに、男性が弱音を吐くと「男のくせに」と馬鹿にされます。

男だからこそ泣きたいのです。
男の方が純真で素直で弱いのです。

私は日々子育てをしながら、「娘よりも息子のほうが痛みに弱くすぐ泣く」と思っています(そして、息子にネガティブな感情はもっていません。泣き虫で可愛いなと思っています。そして息子と同じくらい娘達も可愛いです)。

夫を見ても「男の人は愛情深くて優しいなあ」と思います。

だから、女性たちの中にも「男性の優しさと弱さ」に気づいている人はたくさんいるはずです。

しかし、社会では「男性とは強く泣き言を言わない生き物である」という認識が広まり過ぎてしまっているので、その考えや発言は、かき消されてしまっているのだと思います。

外見的に強そうに見えるだけで、肉体的な強さとは裏腹に精神的なものは非常に弱いので、男性は、より苦しむことになります。

 

この男性性を女性が理解するということも差別を撤廃する原動力になると思います。

 

男性の場合は、社会的な無理解にプラスして、さらに強者の男性(高学歴、高収入など)が弱者の男性を差別するという構造も存在します。

そして、虐げられた男性が、より下の叩きやすい相手を探し、結果として女性を差別するということも行われています。

そして、虐げられた女性は自分の子供を虐待するなど、差別された側はより叩きやすい相手を探して叩くという負の連鎖が続きます。(もちろんこれは例の一部に過ぎません。自分が差別されたからこそ、子供だけは絶対に守ろうとする人もいますし、強者男性から馬鹿にされたら、ナニクソと思い、ひたすら勉学に打ち込む人もいます。)

 

したがって、もしニュースなどを見て子供の虐待に心を痛め、子供の虐待を減らしたい!と考えたら、そもそも収入の低い人を馬鹿にしないということが実は見知らぬ子供を救うという可能性に思いを馳せるのも、あながち飛躍した考えとは言えないでしょう。

 

基本的に差別される側、苦しんでいる側が声をあげることにより、徐々に被差別者の苦しみが理解されるようになると思います。

昔は白人の中には黒人の苦しみを理解する人なんてほとんどいませんでしたが、今ではかなりの数の白人が黒人に味方するようになっています。

 

同じように、性差別や人種差別で苦しんでいる人たちが声をあげることにより、時間はかかりますが、加害者の側が理解を示すようになるはずです。

日本における人種差別

なお、人種差別については、日本に住んでいると、日本に入ってくるアジア人を排除しようとする加害者の側面ばかりが強調されがちですが、海外へ行くと、日本人は被差別者であるということに気づけます。

たとえば、一部の白人は、アジア人をChinkと呼び侮蔑します。

このchinkという言葉は元々は中国人への蔑称だったのですが、アジア人全般を指す差別用語として使われています。

chink(またはChinese、Koreanなど)と呼ばれた日本人は「違う!私はJapaneseだ!」と思いますが、その時、無意識のうちに中国人や韓国人を差別している可能性があります。

私はあんな下等な人種ではない。私は日本人である、と。

しかし、白人から見たらアジアの人は全てchinkです。

男も女も関係ありません。

そう考えると、同じアジア人同士で優劣をつけようと争っているのが馬鹿らしく思えてきます。

また、別の例ですが、言語で優劣をつける行為もおかしいでしょう。

その国に住んでいるなら現地の言葉を話せたほうが便利ですが、話せない人もいます。

それが白人で英語ネイティブの場合は日本では重宝されますが、アジアの人の場合はどうでしょうか?

英語という言語は、多くの人が話す便利な言葉であるにすぎないと思います。ですから、訛りのある英語もまた魅力的です。

それを、「ネイティブ発音(=アメリカ人の話す英語。たまにイギリス英語)」にこだわる英会話学習は目的がずれてしまっている気がします。

英語が絶対であるという風潮から自由になれば、誰もがもっと生きやすい世の中になるのでしょうが、まだまだ難しいでしょう・・・。

差別と優越感

差別をすることにより優越感に浸るという行為は、相手の立場に立って物事を考えられないので、想像力の欠如を表していることになる恥ずかしい行為であると考え、自分を厳しく律すれば、容易には差別をすることはなくなると思います。

もちろん無意識の差別というものはいくらでも起こりうるので気をつけなくてはいけません。

基本的に、強者の立場にある人が学ばずに他者の苦しみに気づくということはできません。

生まれながらに差別意識を持たない人はほとんどいないでしょう。

大抵は無意識のうちに差別をしています。

ですから、もし「他人の無意識の差別」に気づいたら、どうか厳しく糾弾しないでください。

怒りを感じると、つい、他者を攻撃したくなるでしょう。

しかし、既に述べたように「差別」というものは教育によりある程度は直すことができるものなのです(完全に撤廃することは無理だと思います)。

適切な教育を受けなかった場合には自ら学ばない限り、何歳になっても自然には是正できないものなのです。

人は何歳になっても学ぶことはできるのですから、「収入の低い人は馬鹿だ」とか「○○人は劣っている」というような誤った差別的な考えを修正していけばいいだけのことです。

それを、最初から「馬鹿だから差別する」と喧嘩腰で挑んでは、理解しようという気持ちを削いでしまいます。

 

自分を理解してほしいのなら、相手の気持ちも慮ってしかるべきでしょう。

 

なお、先程、差別的な考えについて例を述べましたが、他にもいろいろな例があります。

たとえば、よくある考え方として、

良い大学に行けなかった人を馬鹿にする。
自分より収入の低い人を見つけて馬鹿にする。
自分より不細工を見つけて安心する。

といったことがあげられます。

こういう行為は大きなブーメランとなって自分に刺さってきます。

 

だって、自分より頭のいい人、自分より収入の高い人なんていくらでもいるから。
自分より若い人や美形なんていくらでもいるから。

 
 

このように、自分より上もたくさんいれば、「自分より下」もたくさんいることでしょう。

しかし、見つけても邪悪な気分になるだけで自分の成長には繋がりません。

 

「勉強さえできればいい」「お金さえたくさんあればいい」

そのような考え方の教育を刷り込まれると、ついつい自分より下の人間を見つけて悦に入るくだらない人間になってしまう虞があります。

そして、このような考え方は日本の社会の至る所に蔓延しています。

そのため、「貧しい家の子はみんな憐れ」というような考え方をする人が現れるのです。

近代における合理主義の弊害

そもそも、お金や力という言葉自体はニュートラルです。

さらには、だってそうです。

それに良し悪しの観念を持ち込んでしまったのはもしかしたら我々現代人でしょう。

耳が聞こえないことを悪と考える人もいれば、音が聞こえない世界を楽しめる人もいます。

他者が勝手に「憐れむ」ことはあまりにも馬鹿げている行為です。

同じように、いくら貧しくても楽しく生きている人たちはたくさんいるのですから、自分はお金持ちだからと高みから人々を見下している人は、実は「一番憐れ」な人なのかもしれません。
お金や健常者であるという「有」を重視し過ぎて、足りない部分を「悪」と捉えている限りは、その人にとってこの世は破滅へ向かうだけの世界です。

さて、現代において最も強い存在は白人男性ですので、白人男性に生まれていたら被差別に苦しむことは少ないでしょう。

しかし、白人男性という枠組みの中で、「収入の少なさ」「外見の良さ」などでまた差別が起こります。

差別は決してなくなりません。

区別ではなく、単なる差別が起きるのです。

人間はそもそも区別して自分に役割を与えられるということが好きらしく、自分の役割(肩書)にふさわしい行いをしようとします。

 

白衣を着れば自尊心が高くなる。白衣を着た人をみれば、その人は医師でなくてもその人に信頼を寄せてしまう、というように、ちょっとした小物などでも権威を感じてしまう安易さが人間には備わっています。

 

収入は少なくとも高級ブランド品をまとっていたいという気持ちはこうした感覚(素晴らしいと思われたい)を利用したものでしょう。

 

人を見た目で判断するということは生きていく上で便利かもしれませんが詐欺に出会う可能性が高まるので恐ろしいことでもあります。

まとめ

さて、長々と述べてしまいましたが、企業のブランディングについて書いてまとめとしましょう。

 

これからの時代、企業はあらゆる差別について敏感にならなければいけません。

自分は痛くないからといって他人の痛みに無関心でいることはビジネス上もマイナスです。

今回のプラダの騒動が良い反面教師です。

 

人は、なかなか企業に面と向かって企業の悪い点を指摘してはくれません。
ただ、無視されたり、ボイコットをするだけです。
 
気づかぬうちにジリ貧になる可能性を考えると、最初から差別の目は摘み取っておくべきでしょう。

 

もしも顧客からクレームがきたら、それは企業が飛躍するチャンスでもあります。

人も法人も、悪いところは改め、より良い社会のために努力すべきです。

 

たとえ、それが多くの人の反感を買ったとしても自分がそれを信じるのならその道を突き進めばいいだけです。

 

ブランディングというものは奥が深く、金銭的価値に表すことが難しいものです。

しかし、ブランド価値が上がるということは企業にとって経済的にも大きなプラスとなるので無視できません。

 
多くの人を敵に回すことを覚悟で差別表現をするという手段も考えられますが、あまりにもリスキーでしょう。
(プラダの事件では、白人にオットのアクセサリーを欲しがる人がいたので、白人同士の結びつきを強め、プラダは白人専用のブランドであるとの表明にもなったでしょう。)

 
あらゆる可能性を事前に予測し、臨機応変に対応していくことが求められるので、ブランディングは本当に難しいです・・・(^^;