テセウスのパラドクスという思考実験があります。
テセウスは、クレタ島のミノタウロスを退治し、船に乗ってアテナイへ帰ります。テセウスが乗っていた船をアテナイの人々は大切に保存していましたが、経年劣化により部品の交換が必要になったため、船の朽ちた木材は少しずつ新たな木材に置き換えられてました。
そこで、ある者は「その船はもはや同じものとは言えない」としました。別の者は「まだ同じものだ」と主張しました。
さて、この船は、テセウスの船といえるでしょうか。
答えは特に無いので自由に考えてみてください。
これは、何をもって同一と言えるのかを考える上でよく例示されるパラドクスで、類似のパラドクスとしてヘラクレイトスの川(ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。と言えることから同じ川に2度入ることはできないというパラドクス。)があります。
個人的には、その物体や生物をそれと認識させる核の部分の同一性が保たれていれば同一であると言えるのかなと思います。
草薙素子(攻殻機動隊)を例にとると、脳の部分さえ素子なら、あとはどれだけ何度でも肉体(義手や義足)を入れ替えても素子は素子です。
顔や身長や性別を変えてもきっと素子は素子と言っても許されるでしょう。
素子のようなサイボーグではなく、我々人間も毎日食物を摂取しており細胞は入れ替わっていますが、同一性は保たれています。
ただし、人格や思想が異なってしまった場合、それはもはや同一人物であるとは言えないと思います。
したがって、人をその人たらしめるものは、見た目ではなくその人格や思想である。と言えるのかもしれません。
しかし、これをテセウスの船に当てはめてみるとどうでしょうか。
そもそも船は生物ではありませんから人格や思想というものは有しません。
そのため、見た目(外観)だけがその船がテセウスの船であることの証明となります。
部品をいくら変えてもテセウスの船はテセウスの船でしょうが、その部品のデザインが元の部品と大幅に違ったら、船全体の印象は変わってしまいます。すると、そんなデザインの違う部品が目立つ部分にたくさん使われたある時点で船の同一性は保てなくなると思うのです。
たとえば、船首の飾りを人魚からライオンに変えるとかなり印象が変わります。
また、素材を変えても印象はガラリと変わります。(ふと大航海時代というゲームを思い出してしまいました)
知財的に言うと、目立つ部分を変えることは要旨の変更になるため、もはや同一の船ではないと言えるでしょう(正確に言うと「目立つ部分」を変えることが要旨の変更ではありませんがまあ、細かいことはここでは置いておきましょう)。
こう考えると、テセウスの船のパラドクスは、特許庁審査官に線引きして貰えば解消しそうですね(!?)。
せっかくですから建築物の意匠にも触れましょう。
一戸建ての家は増改築してもその場に留まる限りは同一でしょう。ただし、周りが広々としているためにどんどん増築をしていくと核がブレますね。
これもテセウスの船の場合と同様に、ある程度までは同一性を保てると思いますが、「ここまでは同一だけどこれ以上は違う」と理論的には言えると考えます。
なお、「同一性」に関してですが、私がこのブログで冗談を言わなくなったら(または冗談しか言わなくなった場合も)、それは私の意志を引き継がずにブログ運営だけ受け継いだ別人が記事を書いているんだと考えてください。
テセウスが「テセウスの船」の商標権を持っていて
テセウス(もしくはテセウスの承継人)がある船を指差して
「これがテセウスの船です」と言えばその船がテセウスの船になるんじゃないでしょうか。
小田急電鉄のロマンスカーもデザインとは無関係に
小田急が「これが新しいロマンスカーです!」と言えば
その車両がロマンスカーになりますよね。
箱根行きたい。
まさかの、「外観関係なく指定商品・役務と名前さえ同一なら同一」ですか!
哲学者たち、泣いちゃいます。
ところで、今年に入って大成建設株式会社と日立造船株式会社が『テセウス工法』という商標出願をしていますね。
一体どんな工法なのか、そしてこの審査の行方はどうなるのか、気になって眠れそうもないので寝台特急で旅に出ます(願望)。